LZ127Profile

「グラーフ・ツェッペリン」で世界周航

Pomerania_1

第一区間

ドイツとの別れ

ケーニヒスブルク。古い大学前の広場、パレード広場。
笑いたければ笑って貰って構わないが、私はまず、春のころによく座っていたベンチを探した。実際に、それは20年前と変わらず通りの脇にあり、誰も座っていなかった。もちろん、私はこころの中で思った。今、自分はそこに座っていないのだと。
家々の上には何もなかった。というのも、この日ほど多くのケーニヒスブルク市民を同時に見たことは一度もなかったからである。私はとりわけ、この街が好きであった。
東プロイセンの人達は感激しやすかった。20年前のケーニヒスブルクでのような喝采の嵐を、私は再び劇場や演奏会で聴くことは一度もなかった。
我々が東プロイセンの古い要塞で行ったすばらしいお披露目が、そうならない筈はなかった。城郭の濠のまわりの雑踏はこれ以上ないほど活気に満ちていた。
港湾都市ティルシットに来た。夕刻が迫っていた。地表は石盤に変わっていった。僅かな隆起もない農場は、指物師が丁寧に鉋で削り、象嵌されたテーブルのようであった。木立は束のように立っており街路は換羽のように輝いていた。既にリトアニアに来ていたのである。私は、地平線まで続く亀裂のような絶望的な通りを長い間見続けていた。窓の片隅に、二重の白十字を描いたリトアニアの飛行機が飛んでいるのが見えた。
この地域の風景は完全に変わっていた。悲惨な藁小屋、未開墾の土地。人影は見えなかった。リトアニアの湿地を見て、イセリン少佐は、敵が彼らの軍事的拠点を打ち砕いたのだと、短く、はっきりと言った。
およそ1時間、我々はその上空を進んだ。そのとき我々はまだ、湿地を見下ろし、その光景にぞっとするような恐怖に襲われることになるとは予想だにしていなかった。

まだ我々は、この航行を気晴らしのような気分で受け止めており「探検」という感じは殆ど感じていなかった。
乗船者のなかの一人、ロシア人の地理学者カルクリンがモスクワ上空を飛行するようエッケナーにしつこく迫り始めた。だが、我々がとっていた針路はモスクワとは殆ど関係なかった。そのロシア人は言葉が出来なかった。そのため、彼に何かを判らせるのは困難であった。

士官連に向かって「モスクワの工業地帯には多くの人が居る。シベリアは良くない。」といつも同じ言葉を繰り返していた。この地球がどういう風になっているかと尋ねられても、彼はいつもこれらの言葉を繰り返した。私はこの男を理解できなかった。ソヴィエト政府は、もっとましな誰かを派遣するべきであった。少なくともフランス語か英語の話せる人物を。

天気予報が来たが、別の針路を取るには適していなかったので、エッケナーはそれを断念した。私は今日もカルクリン氏がブリッジに立っているのを見かけた。彼は天気図と地図を指でたどり、あれこれと状況を喋っていたが、誰もそれを理解することが出来なかった。彼はとうとう、乗組員を少々イライラさせた。これは大きな問題である。なぜならイライラと文句を言うのは乗客の特権だからである。

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