LZ127profile

ツェッペリン飛行船の本拠地 フリードリッヒスハーフェン

Friedrichshafen

フリードリッヒスハーフェン

フリードリッヒスハーフェンは、南北をドイツとスイスに、東はオーストリアに囲まれたボーデン湖(英語圏ではコンスタンス湖と呼ばれる)に面した中規模の街である。

街の名前からも判るように、古くからスイスのロマンスホルン、オーストリアのブレゲンツ、それにコンスタンツやメーアスブルクなどを結ぶ水上交通の拠点であった。
いまでもロマンスホルンとの間は60分間隔で連絡船が往復している。
そのために市駅から1kmも隔たっていないのに引き込み線があり、港駅がある。

ツェッペリン伯爵がガレージのような工場と水上格納庫を建設したマンツェルは街の西郊で自転車で行ける距離である。
「LZ1」(水上格納庫Ⅰ)、「LZ2」、「LZ3」(以上、水上庫格納庫Ⅱ)、「LZ4」、「LZ5」(以上、陸上格納庫(ライヒスハレ))はマンツェルで建造したが、フリードリッヒスハーフェンの長老が誘致に来たこともあり、「LZ6」以降はフリードリッヒスハーフェンに新設した工場で建造している。

マンツェルの工場跡は、後述するようにのちにドルニエの飛行艇工場になった。

フリードリッヒスハーフェンには本工場のほかに、現在ツェッペリンNT型準硬式飛行船を建造しているツェッペリン技術社の格納庫のあるアルマンシュヴァイラーの近く、レーヴェンタルにも工場があり、二十数隻の飛行船が建造された。

マンツェルには1899年(Ⅰ号)と1903年(Ⅱ号)に建造された水上格納庫と、1907年に建設された陸上格納庫(ライヒスハレ)、それに格納のみを行う天幕格納庫があった。
これら格納庫の大きさは 長さ140~150m程度、幅16~26m、高さは16~25mとなっている。
1909年にはフリードリッヒスハーフェンに最初の格納庫が建設されているが、これは長さ176m、幅46m、高さ25mの2連格納庫であった。その後1914年に長さ192m、幅32m、高さ28mの第2格納庫が、翌年には「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」を建造した第3格納庫が、北側に隣接して完成した。長さ235m、幅40m、高さ35mであった。
ブルックスは1909年に建設されたものをリング格納庫、1914年に建造されたものを建造用第1格納庫、1915年に建造されたものを建造用第2格納庫としているが、混乱を避けるために第1、第2、第3格納庫と呼ぶことにする。

1932年に「LZ129:ヒンデンブルク」が建造された第4格納庫が建造され、1943年にはレーヴェンタルから長さ270m、幅46m、高さ49mの格納庫が移設されている。
レーヴェンタルには長さ232m、幅35m、高さ28mの第1格納庫、1931年に第2格納庫が建設されたが、これが上記の本工場に移設されたものである。

このほか、ポツダム、フランクフルト、ベルリン(シュターケン)にツェッペリンの建造用格納庫が、マンハイム、ベルリン(ツェーセン)、ライプツィヒ、ダルムシュタットにシュッテ・ランツの建造用格納庫があった。

見出しの写真は2007年5月にツェッペリンNTから撮影したものである。

街の中心部から数km東北のフリードリッヒスハーフェン空港に隣接する飛行船発着場を離陸して西航中に写したもので、中央右手にスポーツ公園が見える。
その右手の約1キロ四方の一角がツェッペリンドルフと呼ばれる地域で、大ホール、食堂、文化施設から酪農場、スーパーマケットまで設置され、第一次大戦中には8千人の従業員中5千人がその福祉施設を利用していたと言われている。
当時はこのツェッペリンドルフに隣接してツェッペリン飛行船製造社本工場の格納庫が聳えていた。

その向こうの緑地公園の左右に、世界的に有名なZFの変速機工場とマイバッハエンジンを作っていたMTUの大きな工場がある。

公園の先、湖岸よりには市駅と駅前緑地があり、右に行くとツインタワーでおなじみのシュロスキルヒェ、その手前にグラーフ・ツェッペリン・ハウスがある。
左に数百mも行くと港駅前にツェッペリン博物館が建っている。

駅前から広がる湖畔公園にはヨットハーバーがあり、公園は市民の憩いの場になっている。
この公園を見下ろすフリードリッヒ通りには戦前、クアガルテンホテルがあった。

クアガルテンホテルは、ツェッペリン飛行船製造社が所有し運営する、その当時南ドイツで最高級のホテルであった。

ツェッペリン伯爵はこのホテルに幾部屋か持っていて、フリードリッヒスハーフェンの住居としていたことがある。

ボーデン湖畔に立つ4階建ての緩やかな曲面をなす大屋根の中央には旗竿に国旗がたなびいており、部屋からは対岸のスイスアルプスが見渡せた。
ホテルの傍には繋船桟橋が湖に長く突きだして、沢山のヨットが繋船されていた。

飛行船グラーフ・ツェッペリンに乗船する人達は、このホテルに宿泊し、出発前夜のディナーで顔を合わせることになっていた。

気温などの関係で早朝や深夜に出発することが多かったので、同ホテルが宿泊施設と決められていたのである。
賠償飛行船「LZ126:ZRⅢ」をアメリカに空輸する予定であった1924年10月12日の朝、温かい気温の朝霧がこの地域に流れ込み、燃料満載の飛行船は浮揚することが出来ず、出発を翌日に延ばし、離陸時刻を1時間早めて浮揚した。

このホテルは第2次世界大戦末期に連合軍の爆撃で破壊され、いまその姿を見ることは出来ないが、そこから近い市駅の前に建てられたゼーホテルの屋根がクアガルテンホテルに似た曲面をなしているのは偶然であろうか?

「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」の世界周航にフリードリッヒスハーフェンから霞ヶ浦まで乗船した大阪毎日の圓地与四松特派員の著書「空の驚異:ツェッペリン」によれば、このときフリードリッヒスハーフェンに11名の日本人が集まったとある。

そのうちの2名はドルニエの飛行艇工場に派遣されていた、同社と技術提携していた川崎ドックの技術者であった。
クラウディウス・ドルニエはツェッペリン飛行船製造に入社したが、伯爵から大型飛行艇の開発を命じられて三発飛行艇 Rs-Ⅰ、Rs-Ⅱa、四発のRs-Ⅱbなどを建造した。その拠点は伯爵が最初の飛行船を浮揚させたマンツェルであった。

第一次大戦後、ドイツ国内で飛行機の製造を禁じられたので、巨人飛行艇ドルニエDoXはスイス側のアルテンハインで建造されている。

グラーフ・ツェッペリンは世界一周飛行の際、1929年8月1日にアメリカに渡り、レークハーストから乗船する乗客を乗せて10日に母港に戻っている。

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