過去の人々の見解は決して確定しない。歴史上の全ては後の人の考えで変わるものである。過去に存在したものについて断定する言葉はないのである。ある人の存在と業績が伝承されているかぎり、同調者と反対派は自分達の解釈について争うものである。
カール・J・ブルクハート(「カール5世についての考察」より)
ウィンストン・チャーチルと同様、フーゴー・エッケナーも大の愛煙家であった。葉巻とパイプを好んでいた。彼が安全のために禁煙を通したツェッペリン飛行船に乗っている間どれほど苦しかったか、しかも皮肉なことに、それは彼自身が命じたことであった。しかしグラーフ・ツェッペリンの卓越した設計主任ルードヴィッヒ・デューアの建造したLZ130「ヒンデンブルク」では、エッケナーの強い要望で「喫煙室」が設けられた。[訳者註:イタリアンダーの誤記である。「ヒンデンブルク」はLZ129であり、LZ130は(2代目)「グラーフ・ツェッペリン」である。]
エッケナーが東京近郊の日本海軍航空基地霞ヶ浦で監督していたとき、「グラーフ・ツェッペリン」から離れたところの芝生で寛いで肘掛け椅子に座り、何の危険も心配することなく葉巻を吸っていた。この奇妙な光景を撮った写真が「ベルリン画報」の表紙となって出版され、外国でも多数出版された。
「フーゴーはタバコ業者のなかで大きくなった」とフレンスブルクのある老人は言っていた。「ご承知のように、プロイセンの軍人国王フリードリッヒ1世にもタバコの仲間がおり、それをアドルフ・メンツェルも絵に描いた。そう、エッケナー家も沢山煙草を吸った。驚くにはあたらない、父親がタバコを栽培しタバコ製造業者であったからである。確かに零細業者ではあったが、それでも昼も夜もタバコの煙が絶えることはなかった。」
父、ヨハン・クリストフ・エッケナーはブレーメンからフレンスブルクに移住してきた。というのも、ここがブレーメンのヴェザー河畔の中心地より明らかに職業選択の機会が多いと思ったからである。フレンスブルク湾は以前、タバコの西インド諸島を含む海外との積換港であっただけでなく、フレンスブルクの後背地にもタバコの栽培地があった。国内・海外のタバコ類はフレンスブルク湾でまずまずの品質で加工されていた。
フレンスブルクにおけるタバコの使用については、1647年に初めて議定書のなかで言及されている。その後、1745年に「フレンスブルク火災条例」のなかで、喫煙に対する警告が行われた。それは次のようなものである。「家畜小屋、屋根裏、荷造り用の建物に火のついたタバコパイプを家僕が持って入ることは認められない。」
その土地の煙草「クナスター」は1864年以降売れ行きが思わしくなかった。そもそも、北ドイツでは、タバコやそれに類するものの商売で裕福になれるということはあまりなかった。タバコ類はたびたび香辛料の店や蒸留酒醸造所で、「高貴の生まれの顧客」に提供された。父、ヨハン・クリストフ・エッケナーと叔父はその住居、北通り8番地でしばらくの間、収入を補うために香辛料を商っていた。たいてい小売業は主婦の仕事になり、つまりフーゴーの母も帳簿をつけなければならなかった。おまけに弟のハインリヒ、アウグスト、フランツとその家族も、小さな会社の稼ぎで暮らしていた。
フレスブルクで全てのことが起こったあの建物は、今は文化財保護のもとで残されている。その建物はフレンスブルク湾奥の街の最も美しい建物に数えられている。このバロック建築は「旧フレンスブルク館」と呼ばれており、観光名所として事典に載っている。「ワイン酒場」が休憩場所として招致され、その看板はフーゴー、アレキサンダー・エッケナー兄弟がここで幼少期と青年期を過ごしたことを思い起こさせる。1979年9月14日、年代記編者を発起人としてフーゴー・エッケナーを記念する展示が始まった。フレンスブルク海事博物館の重要な展示になっている。
飛行船開拓者の父がブレーメンの出身であるというのは、皮肉のように思える。というのも、1864年以前には非常に重要であったフレンスブルクの煙草産業が、ドイツ連邦に移った後すぐに、ハンブルクや、とりわけブレーメンの競争で敗北を喫したからである。フレンスブルクにおける煙草の製造は18世紀に、かぎ煙草の製造から始まった。それなのに「上流階級のかぎ煙草」はフランス革命のあと流行らなくなった。
18世紀末には、フレンスブルクにおよそ40の煙草製造者と、「その倍以上の下請け」がいた。しかし、これらのいわゆる工場は、「自家経営」と呼ばれる小規模な家族経営よりましであった。これは特別なことではなく、当時のヨーロッパではよくある話である。莨を葉巻に加工するために、エッケナー家では二部屋が割り当てられていたということである。
1814年までフレンスブルクの煙草生産量はノルウェー、デンマーク、シュレスウィッヒホルスタインの市場では支配的であった。1864年まではデンマークとシュレスウィッヒホルスタンの一部の市場で優勢な位置を占めていた。フレンスブルクの煙草産業は関税境界の置き換えとドイツ市場への参入を果たせなかった。複数の煙草会社がデンマークに移転した。そのうちの一社はいまもフリズリシアにあり、当時と同様にデンマーク市場では力を持っている。
煙草製造業者の父親の名前は、同じくヨハン・クリストフであった。ブレーメンのワイン醸造者であった。孫のフーゴー・エッケナーは生涯ずっと優れたワイン通で、美味いワインを飲むことを楽しんだ。
彼の飛行船にはすべてあらゆるドイツ産、フランス産の良質ワインが搭載されており、世界中の乗客に賞賛された。
フーゴー・エッケナーの父は1824年、ブレーメンで生まれた。1865年にフレンスブルクに移り、1880年その地で亡くなった。彼の母は1832年にアンナ・マリア・エリザベート・ランゲとしてこの世に生を受けた。彼女はフレンスブルクの製靴職人の親方、クリスティアン・ランゲの娘であった。マルガレーテ・フリードリッヒ生まれのその妻はデンマーク、ボーンホルム島の船乗り家族の出身で、そのことを孫のフーゴーは誇りに思っていた。彼は「さまよえるバイキング」と呼ばれることを喜んでいた。
フーゴー・エッケナーはドイツ小市民階級の出身である。彼は明確に世界市民として広く認識されていたが、その生涯 多くの年月をボーデン湖畔のフリードリッヒスハーフェンの故郷に定住し、常に木訥な気質の中産階級市民であった。彼の家庭生活も、フリードリッヒスハーフェンの住居の様式も伝統的な市民生活のそれであった。
彼は服装ですら保守的であった。年柄年中、上陸中の船長が家で着ているような好みの紺のダブルを着ていた。
しかし、その制服のような服装が彼の容貌によく似合っていた。彼は背が高く、髪は短いブロンドで、眼光鋭い碧眼で手入れの行き届いた先細の顎鬚を蓄えていた。いかにもトーマス・マンの「ブロッテンブローク家の人々」に出てきそうな典型的な北ドイツ型の男であった。
騎士や領主と並んでドイツの市民構成を特徴付けていた農夫、労働者、猟師、漁夫、船乗りはその地方の市民生活とその発展に大きく寄与していた。だが、その一方で -今日、中産階級と呼ばれている- あらゆる業種の手工業者、職人や商人たちはその中に入らなかった。彼らは一方では自分達の息子や娘達が”祖先より立派になること”に気を配りながら、他方では多大な生産物をその地域に提供していた。このような人々には、自信と「王冠に対する男の誇り」が刻まれていた。というのも、彼らはしばしば過小評価され、また 彼らは笑いものにしてもいいのだと思っていた人さえいたのである。
そして、彼らはまだ全て大丈夫であった。貴族階級のような退廃的雰囲気はなかったからだ。モットーは次のようなものであった。すなわち「汝の冷たい死まで常に誠実で正直であれ」ということである。彼らは、立派な男女と同様に穏やかで勤勉であった。ドイツ中産階級の功績はあまりに過小評価されていた。市民であるエッケナーはそれを残念に思った。「今日の市民にはもう少しまともな自己評価が相応しい」と文人哲学者エッケナーはしばしば言っていた。
フレンスブルクの現在の住民は8万9千を数え、今日ではシュレスヴィッヒ・ホルスタインでキール、リューベックに次いで第3の街である。もう百年以上前になるが、エッケナーの子供の頃はフレンスブルクの人口は3万1千であった。
すでに1284年にはフレンスブルクの居住地からは市民権が失われていた。1920年以来、つまり、デンマーク国境までわずか5キロに位置する北シュレスヴィッヒがデンマークに譲渡されて以来、デンマークとドイツ系の人達との間で領地をめぐる争いが何度も繰り返されてきた。
しかし、フレンスブルクの人達は取引上の利害という点で、デンマークか(いわゆる「デンマーク派」)、ドイツ(シュレスヴィッヒ・ホルスタイン派)のどちらに決めるかを表明することに長い間躊躇してきた。文化的にはフレンスブルクは15世紀以来ドイツに帰属していた。1864年、シュレスヴィッヒとホルスタインはデンマーク国家の連盟から離脱し、1876年にはプロイセンのシュレスヴィッヒ・ホルスタイン州と宣言された。
(我々にはそのことが思い起こされる。なぜなら、エッケナーは第2次世界大戦後にその政治的な軋轢に終結させるのに助力したからである。)
1945年から、フレンスブルクに及ぼすデンマークの影響がますます強くなった。地方選挙で約26%がデンマークに投票した。そこに住んでいる全住民の4分の1が隣国に投票したことになる。多くのデンマークの学校やデンマーク中央図書館と、デンマーク独自の日刊新聞(1869年以降)などが、多元的な社会の特徴を示している。
あとでまた述べなくてはならなくなるだろうが、フーゴー・エッケナーはいつもそのドイツ国境の故郷を身近に感じていた。彼は政治的な争いが起こったときに、とりわけそのように感じたと彼は述べている。「私は低地ドイツの人間だ。」フーゴー・エッケナーはヨーロッパ人として自覚する様になった。彼は会話のなかで、次のように話したことがある。自分はヨーロッパ人になった。なぜなら、辺境の地の出で不毛な論争を拒絶したからだと。
フーゴー・エッケナーは1868年生まれであった。ディヒター・シュテファン・ゲオルゲ、ポール・クラウデル、マキシム・ゴーリキー、醸造家のペーター・ベーレンス、画家でエッチング版画家のマックス・スレフォクト、それに作曲家のマックス・フォン・シリングスも同じ年に生まれている。1868年には地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンが中国を訪れ、ゲアハルト・ロールフスがリビア砂漠の研究を始めている。グラッドストーンが英国の首相であった。バイエルンのルードヴィッヒ1世が亡くなった。合衆国では -少なくとも口頭では- 黒人が投票権を獲得した。「ドイツ労働者連盟」が創設されてドイツの労働組合運動が始まった。
このように1868年は歴史的に様々なことのあった年であった。そしてそれに加えて飛行船開拓者フーゴー・エッケナーが生まれたのである。彼は歴史的な出来事すべてに非常に興味を持ち、飛び抜けて豊富な知識を持っていた。
フーゴー・エッケナーにはアレキサンダー(1870-1944)という名の弟がいた。ドイツで彼は画家・版画家として有名になった。2人の兄弟は性格が異なっており、互いによくからかいあっていたことが知られている。アレキサンダーはフーゴーを尊敬していた。しかし、こんなことが起きた。ある飛行船が着陸したあと、彼が弟を見つけたときに、次のように小声で言った。「ここで一体何をしているの?」と。それにもかかわらず、フーゴーは弟アレキサンダーに繰り返し芸術作品を描かせていた。
そのほかに3人の兄弟姉妹がいたが、姉のトーニ(1866-1913)に、フーゴーはとてもなついていた。時々手紙の中で、彼女は5人の子供のなかで最年長であったことに触れている。フーゴーとアレキサンダーのあとに弟アーノルド(1872-1896)と妹イーナ(1880-1967)が生まれている。イーナの娘のアーデルハイト・アッカーマンは述べている。「本来、伯父は家族と距離を置いていた。実際にコンタクトを取っていたのは母親とだけだった。」
フーゴー・エッケナーは1868年8月10日に、それまで家族が仮寓していた古いフレンスブルクの家ではなく大通りで生まれた。
まず、フーゴーはフレンスブルクのサンクト・マリーエン・キルヒホフにある市民学校に通い、その後クロスターガンクのギムナジウムに入っている。そこで彼は1888年、20歳のときに高校卒業証明書を授けられた。フーゴー・エッケナーは年史編者に書面でその青年期を次のように述懐している。
「私は残念ながら意欲的で模範的な面が少ししかない生徒だったので、熱心に学校の勉強をするよりも、アリストファネスから19世紀のロシアの作家まで、手に入った世界のすぐれた文芸作品を読み、ヨットに乗り、スケートをしたりすることを優先していた。そして、絶対に不可欠なことだけをこなす以外には学校のことは何もしなかった。しかし、私はその期間に卒業試験において、歴史、地理、数学、物理でよい成績をおさめ、古代の言語はかなりの高得点であった。」
姪のアーデルハイド・アッカーマンは次のように述べている。「母の12歳年上の兄として、彼は尊敬すべき人物でした・・・。彼にはフレンスブルクのギムナジウムで全能の神ゼウスとあだ名されていたからです。」弟のアレキサンダーはフーゴーの蔵書票のためにスケッチした際に、その表情とともに「父なる神ゼウス」と絵のなかに書き加えた。
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