LZ127Profile

フーゴー・エッケナー博士の人生

DrEckener_Meersburg

博士の横顔

フーゴー・エッケナー博士は1868年8月10日、デンマークとの国境を接するシュレスヴィッヒ・ホルスタイン州北端のフレンスブルクで生まれ、壮年期を南ドイツのフリードリッヒスハーフェンでツェッペリン飛行船とともに生き、晩年もその町で暮らし1954年8月14日に亡くなった。いまは市営墓地の一画でルードヴィッヒ・デューア、カール・マイバッハ、クラウディウス・ドルニエなどと眠っている。

彼はイギリスの宰相であったウィンストン・チャーチルのように愛煙家であった。葉巻とパイプを好んでいた。チャーチルは葉巻のイメージであるが、エッケナーはパイプのほうが似合う。厳つい身体を少し前屈みにしてパイプに火をつける仕種は如何にも彼らしい。

彼はまた、本格的なワイン通で、エッケナーの乗船する飛行船にはドイツやフランスの良いワインが搭載されていた。「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」には右舷側のエントランスの船首側にギャレーがあったが恰幅の良いコックのマンツが立つと窮屈な小さなキッチンであった。火を使えないのでゴンドラの脇につけられた小さな風力発電機が電気冷蔵庫や電熱器に給電されていただけであった。しかし「LZ10:シュヴァーベン」から乗務していたチーフスチュワード、ハインリヒ・クービスの差し出すワインカルテには白、赤、発泡ワインなどドイツ、フランスのワインが10銘柄以上並んでいた。

彼の父ヨハン・クリストフ・エッケナーはブレーメンからデンマークとの国境フレンスブルクに移住して来てそこで煙草製造業を営んでおり、同じ名前の祖父ヨハン・クリストフはブレーメンでワイン醸造業者であった。

彼が愛煙家でワイン通であることは自然の成り行きであった。

余談ながら、エッケナーが「ツェッペリン・エッケナー義捐金」を設立して1925、26年にはドイツ国内を100回もの講演を行い、フレミング、フォン・シラー、ヴィッテマン、プルスなども遊説活動に参加して新造飛行船の建設資金を集めたが、本格的旅客用飛行船に必要な250万マルクには届かなかった。このため「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」では喫煙室を作ることは出来なかったが「LZ129:ヒンデンブルク」建造時にはBデッキ右舷側に喫煙室を設けている。

彼は若い頃、フレンスブルクの峡湾やバルト海で外洋ヨットの航走をしていた。エッケナーの素人の域を超えた気象予報能力はこの頃身につけたものである。右膝は関節炎であったが山歩きも楽しんでいたようである。

その後 ベルリン、ミュンヘン、ライプチッヒで社会学、心理学、歴史、経済学を専攻し、哲学と経済学で学位を取得したあとジャーナリストや劇評などをしていたが、傷めていた右膝の関節炎のため転地療養のためにボーデン湖畔のフリードリッヒスハーフェンに居を構えていた。

(工事中)

トップページに戻る