ルートヴィヒ・デューアがツェッペリン飛行船にかかわるようになったのは1898年、あの最初の飛行船「LZ1」が建造中のことである。後にエッケナー博士がナチの政権により会長に追いやられ社長を引き継いだレーマンが「ヒンデンブルク」の事故で亡くなったあと、ツェッペリン飛行船製造の社長となったデューア博士が、初めてツェッペリン伯爵と会ったのはまだ二十歳を過ぎたばかりの青年であった。
おそらく、デューア青年はボーデン湖の水上格納庫で建造されている「LZ1」のことを知って飛行船を作ることを夢みて志願したのであろう。そして彼は「LZ2」以降、未成のものを含めて120隻以上のツェッペリン飛行船の設計を全て設計したのである。1905年の4月に「LZ2」建造を始めたときに居たのは伯爵とデューアと2人の夜警だけであったと伝えられている。
彼の見た「LZ1」は、長さが直径の11倍もある長い葉巻状で尾翼や方向安定板などはなかった。しかし、何の前例もなくこれを設計し、現実に空中に浮揚させたツェッペリン伯爵は並の人間ではない。
デューア自身、後年「ツェッペリンが天才であったのは、すでに初期の構想のうちに、我々がのちに建造することになる飛行船の基本構造をしっかりつかんでいたことである。我々はおよそどんな基本構造も変更しようがない程にである。我々はただ改良し、より磨き上げて行っただけに過ぎない。」と述べている。
その基本構造とは、軽金属による剛な骨格、相互に独立した気嚢に分けられたガスチャンバー、骨格に固定されたゴンドラに設置されたエンジン室、飛行船船体底部に設けられた通路などである。
ツェッペリン伯爵の基本計画を支援したのはダイムラー社から来たテオドール・グロス技師と気球製造の専門知識を持ったテオドール・コーベル技師であった。おそらくダイムラーエンジンの据え付けや、そこからプロペラまで動力を伝達する回転軸を支える軸受けなどをグロス技師が、飛行船本体やガス嚢についてはコーベル技師が担当して完成させたものであろう。
ツェッペリン式飛行船における構造上の特徴の一つに、桁材の剛性を上げるためにアルミニュームの梁を補助支柱で組んだ3角断面フレームがあるが、これはデューア博士の考案である。いまでもフリードリッヒスハーフェンの博物館でその接合部を見ることが出来る。
彼は飛行船の開発に必要な風洞装置を自費で建設して、その研究成果を「LZ3」の設計に反映させたと言われている。
その後建造されたツェッペリン飛行船の基本設計はすべてデューア博士が担当している。
「LZ1」から「LZ5」までは、飛行船の指令としてツェッペリン伯爵が乗っていたが、デューアは「LZ6」、「LZ7」で伯爵以外の指令として初めて指揮を取っている。
しかし、1910年6月28日に「LZ7」がトイトブルクの森に乗り上げてしまった。
幸い、この事故で亡くなった人はいなかったが、この後デューアは飛行船に指令として乗ることはなかった。
彼はフリードリッヒスハーフェンで最初のオートバイ乗りであっただけでなく、天分に恵まれた気球乗りでもあった。彼は庭や果物作りだけでなく、近くのアルプスで夏にはロッククライミングに挑み、冬には高山スキーの先駆けを試みた。
彼はドイツ・アルプス山岳協会のフリードリッヒスハーフェン支部の共同設立者になり、その名を知られた壮大な山岳道フェーヴァル山塊会の執事にもなっている。
ルートヴィヒ・デューアは高齢になるまで、いつも住まいと工場のあいだの道を自転車で通った。有名な同郷人のその慎ましい姿は、フリードリッヒスハーフェンの人々の記憶に留まった。彼は1955年の大晦日の晩78歳で亡くなった。
飛行船長ハンス・フォン・シラーは、デューアについて次のように述べている。
「偉大な業績を残しておりながら、物腰はシュヴァーベン人によく見られるように丁寧で、強い意志を持ちながら絶えず礼儀正しく、先見の明を持ち、誰にでも親切であった。」
ツェッペリンコンツェルンの支配人、アルフレッド・コルスマンは次のように述懐している。
「私は、飛行船製造者の専門領域の開発を数人のメンバーに分散させようとしていたが、デューアはリーダーを務める多くの技術者がそうであったように、自分の領域を他の人に委ねようとはしなかった。デューアを見ていると、私が若い頃に村の通りを練り歩き、様々な楽器を同時に演奏していた1人の男を思い起こす。」
ハンス・フォン・シラーはこうも言っている。
「デューアは、真に有能な技術者であるだけでなく、常に多くの現実的課題に対処しており、大きな良心と精緻な感情移入能力を持ち、絶えずその仕事を確実にこなす人であった。彼は多くを語らず、出しゃばらず、生まれつき控えめな性格であった。ただ、彼の専門分野で発言するとき、論述は傑出し、明晰で、誰が聞いても理解できた。」
1956年に没し、いまはエッケナー博士と並んでフリードリッヒスハーフェンの墓地に眠っている。
いまも、フリードリッヒスハーフェンのツェッペリンドルフには「ルートヴィヒ・デューア通り」という通りがあり、その近くには彼の名を冠した「ルートヴィヒ・デューア・シューレ」という学校がある。