こうして、いまツェッペリン伯爵は飛行船をさらに発展させることが出来る手立てを手に入れた。とりわけ、エンジンの性能を増強させる必要があった。なぜなら、すでに明らかになったように、たとえ逆風の中であっても、現実問題として飛行船の実効速度が少なくとも時速70kmに達する必要があったからである。
義捐金の総額がツェッペリン基金に寄贈された。それは飛行船航行の促進全般に使われるべきものとされた。ツェッペリン伯爵は基金の受取人として、引き続き基金の運営を行うことになった。
3百万マルクがツェッペリン飛行船製造有限会社の設立のために用いられた(1908年9月8日)。伯爵はアルフレート・コルスマンを支配人に就任させることに成功した。フリードリッヒスハーフェンの敷地には、臨時の幕屋の隣に、初の大型複式格納庫が設置された。この格納庫は、1910年から1915年まで使用された。その隣には必要不可欠な作業場が建設された。
当面、軍事的用途に向けての仕事の注文をあてにして待つことも出来ないので、コルスマンは1909年11月16日に、DELAG(ドイツ飛行船運航株式会社)を設立した。ツェッペリン飛行船製造は、大都市間の交通やその周辺地域の遊覧に用いられる旅客用飛行船をDELAGに引き渡すことになった。それにより、ツェッペリン飛行船の名が広く知られ、広範囲に硬式飛行船の操縦経験を重ね、軍用飛行船を含めた乗組員の教育・訓練を行おうという狙いであった。
多数の都市が参加し、多くはそれぞれの費用負担で飛行船格納庫を建設した。バーデン・オース、ドレスデン、デュッセルドルフ、フランクフルト・アム・マイン、ハンブルク・フールスビュッテル、ゴータ、ライプチヒ、ポツダムなどで。
1911年8月1日に、DELAGはエッケナー博士に飛行船船長兼指導員に任命した。
(1908年から正式に伯爵のコンサルタントであったが)
後に彼はDELAGの取締役になる。
コルスマンの活動的で着想豊かな経営により「ツェッペリン・コンツェルン」が設立された。ツェッペリン飛行船製造の多くの子会社が作られ、そこから重要な事業が展開された。
1912年にビッシンゲンから航空機エンジン工場をフリードリッヒスハーフェン近くに移転させ、マイバッハ・モーターと改称することにした。ヴィルヘルム・マイバッハは、当時まだダイムラーに居たが、1908年に息子カールを伯爵に推薦した。
彼は飛行船に適した信頼性のあるエンジンを設計しており、のちにそれを生産するための工場をまずビッシンゲンに建設したのである。
1909年10月、ベルリン・シェーネベルク(のちにテンペルホフ)に気球外被有限会社が設立され、そこではおもに金箔打皮(ゴールド・ビーターズ・スキン)のガス嚢が製造された。
それに続いて、1913年5月1日にツェッペリン格納庫建設有限会社が、1915年にはフリードリッヒスハーフェン歯車製造所が建設され、ここでは必要な歯車と伝動装置が製造された。ツェッペリン伯爵は、長年一緒に仕事をしてきたゾーデン・フラウホーフェン伯爵をこの工場の経営者に任命した。
コンツェルンに所属するポツダム飛行船空港が航空輸送の拠点としても、工場としてもとりわけ適していないことが明らかになると、1915年の夏に、ガス製造工場と軽金属鋳造所を備えたツェッペリン飛行船製造シュターケン有限会社が設立された(そこでは12隻の飛行船が組み立てられている)。
重要度の低いコンツェルンの会社の他に、ツェッペリン福祉会社の名を挙げておくべきであろう。国民義捐金に対する義務を感じた、社会福祉の面で当時の考えからすれば優れた貢献をなしとげたツェッペリンの強い意向でこの会社は設立された。
商店付き住宅団地、農場、製粉所、酪農場、産院、宿屋を兼ねた料理店、社員食堂、ランドリー、大ホール、スポーツ施設、図書館などが次々に迅速に設置された。
ツェッペリン伯爵が、かなり早い段階で飛行機の製造にも興味を持っていたということはあまり知られていない。地域によっては飛行機の方が飛行船より優位になるだろうということを彼は予測していた。
既に1899年に、彼はリューブという名の仲間が羽根車付きの飛行機を製造するのを支援している。コーベル技師は1907年にツェッペリン伯爵に呼び戻され、飛行機の計画を検討するよう依頼されている。
彼のために、伯爵は1912年にマンツェルの施設と貸付金を提供した。フリードリッヒスハーフェン飛行機製作有限会社が設立され、第一次世界大戦中には3000人の従業員が動員され、高い実績と品質を誇る飛行機が製造された。
1910年からは、クラウディウス・ドルニエが静力学者として共同作業に加わった。ツェッペリン伯爵は彼に(大西洋横断輸送用)鋼製飛行船の設計をさせた。1914年5月1日にDO(ドルニエ航空機製作所)をコンツェルンの1事業所として独立させた。大戦が始まると伯爵は彼に大型飛行艇の開発を指示した。
開戦にあたり、ツェッペリン伯爵は巨大な飛行機を建造することを目論んでいた。この計画を支持していたロベルト・ボッシュは、自らの共同事業者の1人である取締役のグスタフ・クラインを伯爵に紹介した。
ゴータの車両工場でゴータの試作機が作られた。既に1915年6月に最初の大型で画期的な飛行機が離陸していた。1918年に、開発と生産はシュターケンに移されてシュターケン航空機製作有限会社が創設された。この企業の長い歴史の詳細を述べることは断念せざるを得ない。
ツェッペリン伯爵は、その高齢にもかかわらずシュターケンにおける航空機製造に活動的に関与した。
あまりに精力的に働いたため彼は体調を崩した。1917年3月始め、彼はベルリンで腸の手術を受けなければならなかった。肺炎がさらに容態を悪化させた。1917年3月8日、彼は79歳でその眼を閉じた。シュトットガルトのプラハ霊園で彼の葬儀が行われる前に、ベルリンでは飛行機の墜落でグスタフ・クラインが命を落とした。
飛行船技術に捧げるこの著書のなかで、ツェッペリン伯爵という人間について正当な評価を試みるつもりもないし、まして、その生き方、政治的見解や性格的特徴を語り尽くせるなどとは思っていない。
ただ、彼の卓越した人格の一面だけは述べておかなくてはならないだろう。なし遂げるべき課題に適する、独創的、強力かつ個性的人間たちを、自分と自分の仕事に結びつける術を彼が常に心得ていたということである。その人物たちとは、アルフレッド・コルスマン、カール・マイバッハ、クラウディウス・ドルニエ、ゾーデン伯爵、グスタフ・クライン、なかんずくフーゴー・エッケナー、ルードヴィヒ・デューアの面々である。
エッケナーが居なければ戦後のツェッペリン飛行船製造は存続出来なかったし、デューアは硬式飛行船の建造と切っても切り離せられない名前である。