LZ127Profile

アルフレート・コルスマン

Colsman

アルフレート・コルスマンは、ツェッペリン伯爵が硬式飛行船を開発していた時期に、構造材料のアルミニュームを提供していた、リューデンシャイデのアルミニューム工場主カール・ベルクの娘婿である。

ベルクは1889年のパリ万博でアルミニュームを知り、ヴェストファーレン州に工場を建設してアルミニュームを製造していたが、その売込先の開拓に腐心しており、ダヴィッド・シュヴァルツの硬式飛行船製作のときも、アルムニューム材を無償で提供している。
(新素材アルミニュームは、1827年に米仏両国で金属アルミニュームを電解法による特許が申請されていた。)

1898年に硬式飛行船建造に関してベルクが協力することを申し出て「LZ1」が建造されたが、一連の実験のあと飛行船も水上格納庫も解体され、会社は解散してアルミニューム材も返納された。「LZ2」建造の際もアルミニューム材は無償提供されている。

「LZ2」がアルゴイの事故で解体され、エンジンなどを流用して建造された「LZ3」は陸軍に納入され、次いで建造された「LZ4」がエヒターディンゲンで炎上するとドイツ国内から醵金が寄せられ、この資金で1908年にフリードリッヒスハーフェンにツェッペリン飛行船製造社(Luftschiffbau Zeppelin GmbH)が設立されたが、このとき伯爵に乞われてベルクの婿アルフレート・コルスマンが社長に就任した。

コルスマンの非凡な点は、翌年、世界最初の航空会社ドイツツェッペリン空輸会社(Deutsche luftschiffahrts Aktiengesellschaft:略称DELAG)を設立したことである。当時、ツェッペリンの飛行船は何とか飛ぶことは出来たが軍の態度も煮え切らず次々と発注するような状況ではなくもてあまし気味で、会社を設立したものの何をすれば良いのか見通しもなかったのである。DELAGを設立し、ツェッペリン飛行船製造社に飛行船を発注し、それで遊覧飛行を行うことで事業としての採算を計り、あわせて運航要員の養成を行うことが出来た。

広報担当役員であったエッケナー博士に飛行船船長の資格取得を奨めたのもDELAG社長であったコルスマンであった。

ツェッペリン博士の偉大な点は、人物を発掘しその才能を発揮させた点であると考えている。最初の飛行船「LZ1」の飛行実験のときから自分で操縦していたが、コルスマン、エッケナー博士、デューア博士など適任者を見つけると、それぞれに会社の経営、運用や要員教育、飛行船の開発設計などを任せて開花させたことが事業発展の大きな鍵であった。

コルスマンも事業の展開方向など細部では伯爵と思惑の違いがあったと思われる。

エッケナー博士による2度目の訪米飛行が失敗した頃から、博士との不仲説が噂にあがるようになり、経営面での確執が表面化して、1930年にコルスマンが解任され、エッケナー博士が後任社長となっている。

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