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コラム:未完成の飛行船

Zukunft

未完成の飛行船達

第一次大戦後の1920年前後から各国で様々な飛行船が計画された。

なかには荒唐無稽なアイデア倒れのような構想もあったが、非常に現実味を帯びた計画もあった。

ここでは取りあげないが軍用飛行船に関しては、グッドイヤー・ツェッペリンで建造された「アクロン」、「メーコン」に刺激されて日本海軍も軽爆撃機を4機程度搭載した飛行空母のようなアイデアを考案したことが秋本氏の「日本飛行船物語」に紹介されている。

アメリカでも「ロサンゼルス」のガス容量の2倍程度の飛行船が計画され、完成予想図(上図)が発表され、ドイツではハロルド G.ディック氏の著書の付録に紹介されたシュパイア飛行船計画の話もある。軟式飛行船のパーセヴァルも10室程度のキャビンを設けた旅客用飛行船の計画図を発表している。

いつか、これらの飛行船についても紹介したと思っているが、今回はLZ建造番号のついたツェッペリン飛行船のうちで未成に終わったものを取りあげる。

ツェッペリン飛行船製造が建造した飛行船にはLZで始まる一貫した製造番号が付けられている

世界一周飛行で有名な「グラーフ・ツェッペリン」は「LZ127」であり、レークハーストで着陸直前に爆発炎上した「ヒンデンブルク」は「LZ129」、アメリカ海軍のために建造された「ZRⅢ」は「LZ126」で、「ヒンデンブルク」と同型の「グラーフ・ツェッペリン(2代目)」は「LZ130」である。

しかし、ツェッペリン飛行船製造が実際に完成させたのは119隻である。

第一次世界大戦中に起工された「LZ70」は結局未成のまま終わっているし、大戦末期に起工された「LZ115」、「LZ116」、「LZ117」、「LZ118」、「LZ119」は完成前に終戦となり、未完成状態で解体された。

終戦直後「LZ120:ボーデンゼー」、「LZ121:ノルトシュテルン」は建造されたが「LZ122」、「LZ123」は連合軍側の中止命令で建造中止されたものと思われる。

「LZ128」は「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」のあと建造されることになっていたが、世界周航の前後からアメリカと不活性ガス・ヘリウムの供給を受けられるように交渉していたので建造を見送り、ヘリウム船「LZ129」(後にヒンデンブルクと命名される)の建造に踏み切ったのである。結局ヘリウム供給の交渉が不調に終わったため、浮揚ガスに水素を用いたがガスの浮力差を調整するために固定バラストとしてピアノなどが搭載されることになった。

疑問は「LZ124」および「LZ125」と呼ばれる未成の飛行船である。

ディック氏の著書によれば、ツェッペリン社は「L100」とよばれる、後の「グラーフ・ツェッペリン」よりやや大きく108000立方mで、マイバッハ高々度エンジンを10基搭載し、計画有効載荷重量92トンの飛行船を建造していたというのである。数種類の設計が行われ「L100」を「LZ125」に再生しようとしていたという。

この「L100」と言うのはディック氏の記憶違いではないかと思われる。ドイツ海軍はシュッテ・ランツの飛行船を「SL○○」、ツェッペリンの飛行船を「L△△」と命名していた。SLあるいはLという識別符号のあとに続く固有番号はシュッテ・ランツではメーカーの製造番号そのまま、ツェッペリンの場合は海軍が受領した順に一貫番号をつけていた。実際に建造され終戦前に海軍に引き渡された最後の海軍飛行船は終戦後イギリスに引き渡された「L71(LZ113)」であり、同型の「L72(LZ114)」は戦後完成し、終戦後フランスに引き渡され、その後L番号の飛行船は建造されていない。

「L72」は終戦直前に海軍飛行船隊司令のシュトラッサーが英国空襲に出撃して海上で撃墜された「L70(LZ112)」と同型船である。

関根氏の著書「飛行船の時代」によれば終戦後、エッケナーとレーマンはこの「L72」をアメリカ飛行に使えないかと準備を進め、1919年3月始めに準備を完了したという。ヴェルサイユ条約調印の3ヶ月以上前のことである。

同書には「戦後まもなくであり、世界的影響も大きく、ひとまず新政権のワイマール政府に許可申請の打診をした。するともしそんな行動に出ればフリードリッヒスハーフェンのツェッペリン建造会社はフランスに占領され、格納庫も飛行船も破壊される恐れさえあり、なるべく連合軍側を刺激すべきでないとワイマール政府も弱腰だった。ワシントンのドイツ大使ベルンストルフ伯爵も、この行為はアメリカとの外交関係をむしろ悪化させると踏んでいた。事を急ごうとしたレーマン達は四月までにはアメリカ行きの出発準備を完了していたが、政府からの電報は、出発を中止せよだった。」と記述されている。

それではなぜ「L72」が「L100」とすり替わったのであろうか?私は、陸軍飛行船の船名符番要領にあったのではないかと思っている。以下は推測である。上にも述べたように、終戦前後の混乱期を除いて唯一欠番となったのが「LZ70」である。起工はされたものの、何らかの事情で未成のままである。この前後に陸軍に納入された飛行船は「LZ98(製造番号:LZ68)」、「LZ101(製造番号:LZ71)」などとツェッペリン社の製造番号に30を加算して命名されている。そんな連想で「L72」を「L100」と取り違えた可能性がなくもない。但し、これには何の根拠もない。

新しく設計された「アメリカ船」は、長さ236m、直径30mで16の気嚢に100000立方mの水素を充填し、240馬力のマイバッハエンジン12基を装備していた。

客室を備えた郵便兼用高速船と旅客船の2つの設計があったという。

私はこれが「LZ124」と「LZ125」ではないかと思っている。

ディック氏はグッドイヤー社とツェッペリン飛行船製造社の合弁会社グッドイヤー・ツェッペリン社の技術者で、1934年から38年までフリードリッヒスハーフェンに派遣され、「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」に乗船して大西洋を22回も飛んでいる。特に「ヒンデンブルク」の最初の試験飛行に、ツェッペリン社外からただ1人乗船したことを誇りにしており、エッケナー博士やその子息クヌートと家族のようにつきあっていたとその著書で回顧している。

著書には彼の撮影した写真やデータ、スケッチを含み、付録としてツェッペリン飛行船乗務員の職掌分担や飛行船全体配置図符番要領、乗務員マニュアル、シュパイア飛行船プロジェクトなど詳細を極める。

「グラーフ・ツェッペリン」や「ヒンデンブルク」についてデータやマニュアルを詳述した氏のことであるから何らかの根拠があって記述していると思われるが、彼がドイツに行ったのは第一次大戦の終戦から十数年経て後のことであり、伝聞情報であろう。今となっては確認する手立てのないのが残念である。

シュッテ・ランツ飛行船は「SL1」(タイプ"a")から「SL24」(タイプ"h")まで、建造に着手されたのは24隻であったが、タイプ"g"の「SL22」、「SL23」、それにタイプ"h"の「SL24」は建造途上あるいは引き渡し前に終戦を迎えている。なお、タイプ"f"の「SL19」は何らかの事情で建造されていない。

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