LZ127Profile

ツェッペリンに捧げた我が生涯

LZ17

...und so kam ich zum Luftschiff

飛行船の世界に入るまでの経緯(2)


引き続いて我々は ハンブルク、フランクフルト・アム・マイン、バーデン・オース、ゴータなど至るところで飛行を行った。
1912年にデュッセルドルフにいるときに、フリードリッヒスハーフェンからボイエルレ、ロイター職長、シュタイネマン甲板長(ボースン)、それに新米の私に、直ちにハンブルクへ行って、そこですぐに格納庫を建設するようにという指令が来た。
その格納庫は出来るだけ早く完成させなければならなかった。
ツェッペリン伯爵が乗船する新飛行船「LZ12(陸軍飛行船 ZⅢ)」がそこに来ることになっていたのである。
伯爵は、その飛行船で初めて外洋の試験飛行に出ることになっていた。
それ以前には、飛行船が外洋に出たことはなかったのである。
我々はハンブルクに行き格納庫を完成させた。
そして、1912年5月31日にその飛行船がやってきた。
それは、ボーデン湖からハンブルクまで10時間半で飛来したのである!
北海への最初の飛行が実施され、海上で航法が実施された。
飛行船は、水上船舶とはまったく異なる航法をとる。
水上船舶では横への偏流は僅かであるのに対し、飛行船は横風によって大きく偏流する。
何も地上の指標がなく、ただ波頭や雲があるばかりなので、この偏流は測定が困難である。そこで、例えば 水上に落下した際に煙と光を発し、それによって偏流の定点測定を可能にする「測定用投下弾」が試用された。

老伯爵は当時74歳であったが、どの飛行にも参加した。飛行が終了したあとで、我々は伯爵に格納庫に呼び出された。
彼は、飛行船に関わった人々がフリードリッヒスハーフェンだけでなく、DELAGにもいたことは素晴らしい快挙であると言った。
彼は我々に贈り物をしたかったのであるが、選ぶ時間がなかった。それで、彼は小銭入れを取り出して、全員に10マルク金貨を手渡して、心から我々に感謝した。

1912年には次の飛行船「LZ13:ハンザ」が完成した。
「ハンザ」は、既に「シュヴァーベン」で操舵手として乗船していたハイネン船長によって操縦されていた。その飛行船はハンブルクに配置された。

3隻の軍用飛行船と並行して、次のDELAG飛行船「LZ17」が建造され、1913年5月には「ザクセン」と命名された。

「ザクセン」は、そのとき複式格納庫が建設されていたライプチヒに配備された。
そこには私の兄も働いていた。
その飛行船の操縦はエルンスト・レーマン船長の手に委ねられていた。

私はまだ、ある晴天の日「シュヴァーベン」に起きた出来事について述べていない。それは、我々が「ヴィクトリア・ルイゼ」でハンブルクにいたちょうどその時、焼失したのである。その飛行船は、1912年6月28日にデュッセルドルフの格納庫の前につながれていたのであるが、引きちぎられた。
その傍らでおそらく支索の鋼線が破断し、そのために火花が発生しガスを炎上させた。それで「シュヴァーベン」は失われたのである。その乗組員は、のちに「ザクセン」に移された。DELAGにより、ドイツ中をめぐる多くのすばらしい飛行が行われた。戦争の勃発までに、我々の飛行船は1588回の飛行で 172535kmを航行し、34028人を乗船させて飛行した。
その中には、18287人の乗客と訓練生が含まれていた。

トップページに戻る