LZ127Profile

ツェッペリンに捧げた我が生涯

LZ10_1

...und so kam ich zum Luftschiff

飛行船の世界に入るまでの経緯(1)


私の兄、フリッツ・ザムトは索・滑車の職長として1910年にDELAGに入社し、1911年秋にベルリンにシュヴァーベンが配備されていたとき、そこで働いていた。
私は志願して1909年から1910年まで軍務に就き、その後 父の仕事であるロープ製造業に従事していた。
ある日、兄が私に飛行船のことを手紙で伝え、私に参加する気があるかどうか訊ねてきた。だれが参加したくないであろうか?
私は「はい、すぐにでも!」と書き送った。
兄は、飛行船シュヴァーベンを指揮していた工学士 W.E.デーアにそれを転送した。
彼は「承知した。若者たちの仲間に入って貰おう!」と言った。
こうして、私は1912年1月にフランクフルトに行った。

飛行船 LZ11:ヴィクトリア・ルイゼが3月1日、そこに来た。
それは船乗りのブロイ船長が指揮しており、舵手達もそのころは船員であった。
私は、特に陸軍のグルセンドルフ軍曹が昇降舵を操作することに感銘を覚え、のちにこの技を彼から学んだ。
我々は飛行船を格納庫に入れ、そしてのちにLZ104(L59)で東アフリカに飛んだグルセンドルフが兄のところに来て、作動しなくなった圧力調整弁を自分と共に交換できる者が誰かいないかと訊ねた。
そこでフリッツは言った「はい、私の弟がいます。彼が出来ます」と。
グルセンドルフが答えた。「何? それはよかった。では、こちらにおいで!」
それから我々は飛行船に乗り込んで、私はパラダイスにいるかのような気持ちであたりを見渡した。
無論、何も判らなかった。
それから、私は圧力調整弁が取り付けられていたガス嚢の下に這って行った。
グルセンドルフは「気をつけろ! 私が輪を離したら古い弁を外し、新しいのをまたすぐ開かねばならない、セルの中に流入する空気を最小限にとどめ、それがガスと混ざらないようにするのだ」と言った。
彼の言ったようになった。
弁の直径はおよそ80cmであった。
それは締め輪で挟み込まれており、紐で固定されていた。
ラミーの紐であった。
ラミーは最良の繊維である。
私はこの紐のまわりに、引っ張ってもほどけない「結び目」を作った。
それをグルセンドルフが見た。
「この結び方をどこで習ったのか?これはどういう結び方か?」と彼は訊ねた。
私は「あなたもご存じだと思いますが、ロープ製造業をしている父からそれを教わりました。」と答えた。
彼は「これは驚いた。素晴らしい。」と思った。
その出来事で、私は彼に認められた。
彼は「よし、これからも一緒にやってゆこう」と言った。

気象学者のレンパーツ博士もヴィクトリア・ルイゼに乗っていた。
彼は天気図を描き、観測気球を揚げて経緯儀で追跡するときに、私を一緒に連れて行った。
それで高空での風向と風速を観測するのである。
その後、私はそれもやってみた。
その当時、飛行のための測候所はどこにもなく、DELAGは自ら気象観測業務を行わなければならなかった。
飛行船格納庫の建っているところでは、至るところで格納庫監視員あるいはそれに代わる人を待ち受けており、そこで彼らはまた観測気球を揚げて、朝の6時あるいは7時頃、測定数値をフランクフルトに電話で報告した。
我々は自分たちでそれを伝達した。
その後、我々は自分で天気図を作成した。レンパーツ博士は自筆で行っていた。

私はそれからよく観察し 2、3週後には自分で天気図を描いた。
レンパーツ博士がその天気図を見て「これは君が描いたのか?」と訊ねた。
私は「はい、博士!」と答えた。
「誰が君に教えたのか?」
私は「あなたご自身です!」と答えた。
彼「何?、それは凄い!」
そのときから私は毎朝、天気図を描くことになった。
レンパーツ博士は、あとでそれに彼の天気予報をつけ加えるだけになった。
その結果、そのために私は毎朝5時にはもう起きていなければならなくなった。

要するに、DELAGはまだ 5、6 あるいは7隻の飛行船を就航させておかねばならなかった。
エッケナー博士は、このため若者を見つけて新しく乗組員に養成しなければならなかった。
大抵は、水上船舶の乗員からやって来た。
私はロープの取り扱いについて学んでいたので、飛行船航行に役立つ繊維素材とロープに関するいくらかの知識を身につけていた。そこで、ブロイ船長は要員養成の専門教育を受けるように私に勧めた。

当時飛行船の航行に関する学校は何処にもなく、またその頃 空気動力学についてはまだ多くを知られてはいなかった。
エッケナー博士は、それでフリードリッヒスハーフェンに飛行船学校を設立し、そこで若者がすっかり教育された。
レンパーツ博士は気象学を、技師は静力学、動力学、構造強度力学その他を教えた。
そのほか、海員養成の教育を受けていない者は、ハンブルクの商船学校で3ヶ月課程を受講した。

冬季 飛ばないときは、ガス嚢を分解検査し、当然のことながら 例えば整備教育や航海術など様々な課程を実施した。
そのとき 我々の教育を行う練習船はヴィクトリア・ルイゼであった。

私は最初の飛行を1912年の夏に経験した。
我々はハンブルクにいた。
そこから ある素晴らしい日曜日の朝、それは7月7日であったが、ハノーファまで乗客を乗せて行くことになっていた。
当時 私は、飛行船が飛来したときに如何にしてそれを迎えるかを地上支援員に指導するために現地へ先行した。
我々は、よくそうしたように、地上支援員として消防隊を雇った。
同様に、エッケナー博士にもハノーファですべきことがあった。
彼はまた、飛行船発着場に来て、大きな葉巻を吸った。
彼は次のように言った。

「ザムト君、後に我々は、それほど早くバラスト水を船上で獲得できないだろう。太陽が出てきたら、我々は強い浮力を得る。最も簡単なのは、君がボイエルレ技師と乗船して、我々が50kgまたは70kgの水を積み増しする代わりに、一緒に飛行して戻ってくることだ。」

それが、私のはじめての飛行船航行となった。

我々は花が咲いているリューネブルクの野原の上をかろうじて50mの高度で浮揚した。
ああ、それは素晴らしく美しい眺めであった。

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