LZ127Profile

開設2周年

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「航空事業の開拓者」を開設して早くも2年過ぎた。

これを開設した頃は「LZ127」や「LZ129」など花形航空機であった硬式飛行船の装備や船上生活など調べようと思っていた。
しかし、調べて行くうちに初めて硬式飛行船を浮揚させ、何度も挫折しながら定期航空路を開設し、船上生活を快適にするために努力を重ねた先人達のことをさらに深く知りたくなり調査を進めている。

残念ながら国内で出版されている信頼に足る書籍はなく、英語や独語の原書を探すようになった。古書を含めた書籍を検索し、購入することが出来ることは非常にありがたいことである。学生時代には丸善などに申し込んで、納期は数ヶ月掛かるし、代金は印刷されていた定価換算の数倍を払わされた記憶がある。

原書を調べ始めると当時の構造方式や運用について少しずつ判ってきたが、依然として空白のままである部分があることに気がついた。
1900年に「LZ1」を浮揚させて以来、初期の幾つかのトラブルを乗り越えて発展してきた飛行船は第一次大戦にまきこまれて、必ずしも軍事的用途に向かいないまま大型化、高々度化を続けた。 そして、1918年11月11日の停戦を迎え、建造中であった軍用飛行船は解体され、残存船は戦勝国に賠償として引き渡された。 その翌年夏に、流線型の船体下部に操縦兼乗客用ゴンドラを取り付けた近代的旅客用飛行船「LZ120:ボーデンゼー」が出現したのである。そして2日連続で実施された試験飛行の3日後から南独とベルリンの定期運航を始め、連合国側から停止命令を受ける12月1日まで100回以上の定期運航を行い有料乗客2200人以上を空輸している。 定期運航開始の4ヶ月前にヴェルサイユ条約が調印され、同条約が批准されたのは1920年1月である。なぜ、突然「LZ120」と姉妹船「LZ121:ノルトシュテルン」は戦時賠償としてイタリア、フランスに移送せねばならなかったのか?

そして、その当時「アメリカ船」とか「10万立方メートル船」とか呼ばれていた「L100」とはどんな飛行船であったのか?「L100」は6発の「LZ115」なのか、10発の「LZ119」なのか?「LZ124」、「LZ125」と呼ばれた郵便船および高速旅客船は一体何処が運航しようとしていたのか?

それに、これら一連の近代的デザインは誰の設計によるものか?

それらが、クラインハインス教授の研究やザムト船長、フォン・シラー船長の著書、アルンシュタイン博士の伝記などでおぼろげながらつながり始めた。

あるアメリカのウェブサイトで「LZ129:ヒンデンブルク」が最後の飛行の前に増設された20名分のキャビンの設置された場所や配置が判った。

今後、これら新型商用飛行船の進展の経緯を重点テーマのひとつとして取り組むつもりである。

(8月に発行した「飛行船Q&A」をお届けしたら面白いとメールを戴いた。稀に戴くコメントは嬉しいものである)

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