LZ127Profile

ツェッペリンに捧げた我が生涯

Bild53

Neubeginn nach dem Kriege mit LZ 120 BODENSEE

LZ120:ボーデンゼーによる戦後の再開


1918年11月の終戦のあと、戦勝国である連合軍は検討を重ねた結果、次の条件で合意した。すなわち、ドイツは3万立方メートル以下の飛行船しか建造してはならず、幾つかの格納庫しか残してはならないというものであった。

明らかに戦勝国の専門家は、この制約のもとでは飛行船の建造は不可能だと考えていた。しかし、エッケナー博士は当然のことながら即座に飛行船の建造を再開するつもりであった。そのとき、残存する海軍飛行船の処置についてはまだ決定していなかったが、協約による引き渡しが予測されており、また 特別に高々度を飛べるように作られた大型軍用飛行船は、いずれにしても民間飛行船運輸用に改造することに向いていなかったため、エッケナー博士は終戦後すぐに手持ちの機材で、小型の高速輸送用飛行船を建造することを決断した。

1919年8月20日にLZ120は完成した。容積はわずか2万立方メートルしかなく、戦前のDELAG飛行船より大きくはなかった。「ボーデンゼー」と命名されたその飛行船で、我々は非常な成功を勝ち得た -それは、戦争体験を通じて空気動力学的に最適に建造された最初の飛行船であったという理由からではない。それ以前の飛行船は、よく知られているように多かれ少なかれ葉巻型であった。というのも、ツェッペリン伯爵は当時、一つひとつのリングが他のものと大きさの異なる船体を達成出来なかったのである。そのためには、ずっと多くの工数が必要だったのであろう。彼はできるだけ多くのリングを、多数の同じ部品を使用することが出来るように、そして最小限の組立設備で済むように、同じ大きさに製作する必要があった。その上、最適な形状を見つけ出せるだけの空気動力学の専門知識が当時はそれほど多く培われていなかった。

1909年にはマンハイム・ライナウにあるランツ会社でシュッテ・ランツ飛行船の建造に着手された。その際、ツェッペリン飛行船製造社と同様な方法がとられたが、船体にはアルミニュームではなく木材が使用された。

農業機械の会社ランツは、その脱穀機製造によって膠で接着した合板の使用については経験が豊富であった。ダンツィヒ工科大学の教授であり、「SL」飛行船の創始者であり設計者であったオルデンブルク出身のヨハネス・シュッテは、その同僚クルッケンベルクとともに、特に流体力学的にさらに有利な形状にすることで硬式飛行船の本質的改良を主導した。
それによって、飛行船は同じ原動力と同じ大きさで、より高速に飛行することが可能になった。

こうして、ツェッペリン飛行船製造社は軍事的な面でも、飛行船を空気動力学的に優れた形状にする必要に迫られた。
ところが、最初は理想的な形状が実現できなかった。従来の大きさの飛行船を建造・格納するには既存格納庫の高さと幅が充分ではなかったからである。そのため我々は、本来のものよりもさらに長手方向に延長しなければならなくなった。

LZ120の建造の際にはこうした制限がなかったため、この飛行船は細部に至るまで空気動力学的に磨きあげられ、高速性と操縦性に傑出した飛行特性を併せもつことが出来た。1909年には飛行船製造社に大きな風洞が建設され、そこで飛行船模型の測定が行われた。
風洞は、例えば速度記録用競走車や、ドイツ国有鉄道の蒸気機関車、ディーゼル機関車の空気抵抗測定にも使用された。ところで、ルートヴィヒ・デューアは、早くも1900年に空気抵抗用風洞を作っており、それが世界で初めて作られたものの一つであったのである!
「ボーデンゼー」は20人用の乗客キャビンを備えていた。その飛行船は3つのエンジンゴンドラを装備していた。左舷と右舷のゴンドラには、それぞれ1基の推進式プロペラを駆動するエンジンが設置され、中央後部に配置されたゴンドラには、4翼プロペラを駆動する2基のエンジンが搭載されていた。
重量軽減と航続距離延長のため、のちに2基の船尾エンジンの1基が撤去されたが、これによって この飛行船の最高速度が時速133kmから127kmへとわずかに低下したにすぎなかった。

この飛行船は1919年8月に完成した。最初の飛翔から4日後、定期的な旅客運航を開始した!我々はフリードリッヒスハーフェンとベルリンのあいだに定期空路を新設した。朝 フリードリッヒスハーフェンを出発し、南西風が吹いたときには5時間足らずでベルリンに着いた - ときどき それより幾分長く掛かったが。
そこで乗客を降ろし、翌朝 また新しい乗客をフリードリッヒスハーフェンに連れて帰った。

乗客だけでなく、我々はいつも大量の郵便物を運んだ。郵便物は イタリア、フランス、オーストリア、スイスのロマンスホルンから集められ、湖を渡って届けられ、フリードリッヒスハーフェンで南ドイツからの郵便物と一緒にまとめられた。
それらは我々の手でベルリンに運ばれ、そこから国営郵便を経由して北の国々へ発送された。翌日、我々はベルリンで集められた北部地域からの郵便物をフリードリッヒスハーフェンに輸送し、そこで国営郵便に引き継がれた。それは「郵便交換」であった。

このフリードリッヒスハーフェン・ベルリンの往復定期便は、104日間に37回実施された。そのうち、ミュンヘンに12回途中着陸し、ベルリン周遊飛行を3回、計画中であったスカンディナビア定期便の調査のためのベルリン・ストックホルム・ベルリン飛行が一回行われた。

2組の乗組員が、フリードリッヒスハーフェン・ベルリン往復の航程で、その都度 規則正しく交替を繰り返した。私はフレミング船長とイングヴァルトセンが当直士官が乗務するときに昇降舵手として乗船した。
もう一方の乗組員は、ハイネン船長とヴィッテマン当直士官が指揮していた。我々はこの航程で料金を支払った乗客を全部で2250人乗船させたが、その結果(招待客を除いて)1飛行あたり平均28人の乗客を運んだことになる。当初、キャビンは20人の乗客を想定していたのであるが、余裕をもって大きめに作られていたため、30人の乗客でもゆったりとしたスペースがあった。

9月、10月、11月、12月のこれらの飛行は、騒動とストライキで象徴される1919年には非常に成果があり、また不可欠で重要なものとなった。
その当時、鉄道も、郵便も、道路交通もしばしば途絶し、無秩序な状態に陥っていたからである。運賃は片道400マルクもしたにもかかわらず、乗客は当然ながらとても喜び、満足していた。スチュワードのクービスは、いつもとても沢山チップを貰っていた。

このチップは -私は少なくともそうであって欲しいと思っているのだが- 別金庫に入れられた。フリードリッヒスハーフェンのガストハウスで、この「自由に使える」金で、我々はその年の締めくくりを行った。方向舵手で写真家としても養成されていたルートヴィヒ・マルクスは、この機会に全乗組員の写真を撮ろうとした。そこで我々はめかし込み、陣取って座り、写真家を待ちかまえていた。しかし、彼の仕掛けていたマグネシウム発光器に障害が起こった。彼は点火しようとしたが、その導火線は不発に終わったのである。彼はマッチの軸を発火袋に近づけ、それが爆発して彼は手をすっかり火傷してしまった。
我々は死ぬほど笑い転げたので、写真はとても素晴らしい出来映えであった。その写真には、後に次のようなコメントが書き添えられた。「皆さん、何がそう面白いのですか? 空になった船内金庫ですか、手が焦げたことですか?」

この時期、食料品補給事情は非常に悪かった。すべて配給で、闇取引は厳重に取り締まられていた。ある日、税務署の役人が2人来て、飛行船で豚肉をベルリンへ密送しているのではないかと、私に容疑をかけた。

そんなことは知らないし、第一 事実と思えないと彼らに言ったが、彼らも自分の目で確かめれば納得するだろうと私は思った。正直なところ、あまりいい気分はしなかった。しかし、仮に乗組員が実際にそんなことをしていたとするなら、その豚をうまく隠しているだろうと思った。税関役人が飛行船を見て回り、私は彼らに全てを説明した。しかし、豚肉の捜索は無益に終わった。

その後、ベルリンで豚のご馳走を振る舞う祭りに招かれたとき、それがベルリンの豚でないことが判った。そこに集まった陽気な人達から、私は秘密の不法行為が何処に隠されていたのかを聞き知った。彼らは半分を乗客用ゴンドラとガス嚢の間の隙間に縫い込み、残りの半分は下部安定板に詰め込んでいたのである。

たいてい、飛行船はかなり過積載であったので、我々は海面上わずか800mでしか浮揚することが出来なかった。そうしなければ、高度100mあたり1%のガスを失い、それによって飛行船は着陸の際、重くなりすぎて損傷を被る可能性があった。そのため、フィヒテル山脈を越える際、ベルネック温泉の傍のとても狭隘な渓谷を通ることにして、その際どこかで地表に接触しないように注意しなければならなかった。

奥深い林道を通り、後部エンジンゴンドラは字義通り森の中を行きながら、なだらかな連山を越えた。ガスの排出を最小限に抑えるために、ときどき低空飛行をしなければならなかった。にもかかわらず、シュターケンでは外気温が高く、ガスが冷たい状態であったために何度か重い飛行船を扱うことがあった。
そこで、バランス良く安全に着陸できるように、着陸時にバラストを投棄して飛行船の重量を軽減した。しかし、すべてはいつも首尾よくいった。一度だけ例外はあるが・・・。

トップページに戻る