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ツェッペリンに捧げた我が生涯

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Wir fahren um die Welt

世界一周飛行へ(3)


太平洋は我々が出発したときは、その名のように非常に穏やかであった。
しかしその後、台風が100kmほどに近づいていた。
その南側には、我々を進行方向へと押してくれる強い南西の気流が予測された。
夜になると、南に伸びた雷雨前線に達した。
2つの雷雨の間に通り抜ける進路を探し、期待していた追い風を本当に見つけた。

しかしながら、飛行中ずっと海面ギリギリまで重く垂れ下がったところを航行しなければならなかった。
特に乗船客にとっては、感銘の深かったこれまでの旅路と異なり、そこからの航行区間は単調なものであった。

出来事といえばもちろん、日付変更線として有名な経度180度線を横切ることであった。
そこで8月24日を終え、またその同じ日になった。
もし逆方向に地球をまわっていたら暦日を一日飛び越えていただろう-だが、こうして我々は一日を獲得したのである。

とうとう8月25日の朝、太陽は再び海上に輝いた。
海岸に近づいた最初の兆候として、海鳥の大きな群れが姿を現した。

霧と低くたなびく雲に妨げられたにもかかわらず、計画通りサンフランシスコ近くのアメリカ西海岸に16時30分に到着した。
日本列島を出発して67時間経過していた。
広い太平洋が初めて無着陸で横断されたのである。

光り輝く夕映えのなかを、金門湾に向かって航行した。
それは素晴らしい眺めであった。そして -我々は後日新聞報道で知ったのであるが- この光景は地上から見ても感動的なものであった。
飛行機の大編隊が、我々のアメリカ大陸飛行に伴走飛行した。
港や街ではまたも、とても言いあらわすことの出来ない熱狂した歓迎ぶりであった。
美しい街の上を一周して海岸に沿って、アメリカ海軍の繋留柱の待ち受けるロサンゼルス目指して南に進路を取った。

スポンサーであるランドルフ・ハーストの所有地の上空にきたときには、それは深い暗闇のなかに広がっていた。
しかし突然、その地域のすべての照明が輝き始め、モールス信号で歓迎の挨拶が送信されてきた。それはもちろん、予期できないものであった。まさにアメリカ式である! しかし着陸は夜明けを待つことにした。

夜中すこし過ぎ、ロサンゼルスに着いた。
乗客が眠っているので2基か3基のエンジンをまわしてゆっくり飛んだ

地表は夜のあいだに強く冷やされていたので、準備を整えていた海軍発着場に確実に停止させて繋留マストに繋留することが出来るように、着陸前に飛行船からおよそ1000立方mという大量のガスを放出しなければならなかった。

こうして世界一周飛行の第2航程の9650kmを達成したのである。

乗客と大部分の乗組員がハースト氏のパーティに招待されているあいだ、飛行船には燃料とガスが充填された。

夕方出発しようとしたが、そのとき飛行船は過重であった。
水素ガスはもう入手できないのに、過剰に圧力調整弁から放出されたためであった。

従って、燃料とバラスト水を極限まで減らした。
さらに、乗組員の一部は鉄道で後からレークハーストに行かなくてはならなかった。

飛行船は、少なくとも何とか冷たい地表で浮揚出来る状態にはなったものの、我々が真夜中に離陸を試行したときには、温かい気層のために飛行船は上昇しようとはしなかった。
私は船尾にいて、バラスト水の最後の一滴までバラスト袋から振り出そうと試みていた。

そのとき、エッケナー博士が思いきった操船を開始したのである。
「全エンジン、前進全速!」と命じ、それで飛行船は加速して地表から2~3m浮揚した。

突然、進行方向にそれを横切るように高さ20mに張り渡した高架線が現れた。
後部エンジンゴンドラは、地上約5mの高さであった。
エッケナー博士は昇降舵手に -そのとき彼の子息のクヌートであった- 船首を昇降舵で動的に押し上げるよう命じた。
それで船尾が下がり、下部安定板が2度地表を叩いた。
船体の3分の1が電線を越え終わってから、飛行船の船尾が昇降舵の傾きに対応して持ち上がった。
こうして、エッケナー博士は飛行船を、障害飛越の競走馬のように僅か3mの間隔で高架線をかわしたのである。

我々は何度も胸をなで下ろした - この危機的状況は大惨事に終わっても不思議はなかったのである。

それにしても、安定板の縁は地面に当たってどうなったのだろうか?
報告を聞いてほっとした。
キール通路は押しつぶされていたが、飛行船の機能は損なわれておらず、夜が明け始めた8月27日に安心して飛行を続けることが出来ることになったのである。

そのとき我々は、気象的に危険な区域にいた。
北米大陸の台地と山岳の大陸的気候は、とりわけ強い上下の乱気流・雷雨・ハリケーン・トーネイドが起こることで、飛行士のあいだでは悪名が高かった。

ここでは、合衆国海軍はその美しい飛行船「ZRⅠ:シェナンドア」(ドイツの軍用飛行船の模造飛行船)を4年前の1925年9月3日にオハイオ州で激しい乱気流のために失ってしまった。
その飛行船は空中で3つの部分に分解されて、そのうちの2つは自由気球のように着地した。
我々の乗客であるローゼンダール司令は、そのとき航海士官の中尉として14名の犠牲者を出した大惨事を生き延びたのである。

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