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ツェッペリンに捧げた我が生涯

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Wir fahren um die Welt

世界一周飛行へ(2)


我々がちょうど日本の北の島、北海道に到着したとき、空は晴れていて眼下に日本の海岸を眺めることが出来た。
ここは狭い土地でも徹底的に耕作されており、シベリアとは全く対照的であった。

天候は良好、視界は澄み切った状態で、8月19日の16時30分に東京に到着した。

挨拶するために、大都市の上空で大きな円を描いて旋回し、そこから港湾都市横浜へ飛行した。遠景に霊峰富士山が、夕陽にその荘厳な姿を現した。

我々の飛行船が出現したとき、大歓声が湧き上がった。
数百万の人々が我々に手を振り、自動車も船舶も警笛を鳴らした。
サイレンも鳴り響いた。
日本人の熱狂と心からの歓迎は驚くべきものであった。
考えてみれば、日本は11年前の戦争でドイツと敵対していた。
ここでも飛行船はその敵対関係を決定的に打破したのである。

中欧から4日間で日本に来ることが出来た。

当時、この間を汽船で行くと4週間、陸路ではシベリア横断鉄道で2週間必要であった。
正確には102時間、距離にして 11,250kmを無着陸で飛んだのである。
これが世界新記録でなくて何であろう!

最終的に東京近郊にある霞ヶ浦飛行場に向かった。そこには第一次大戦の戦時賠償としてドイツ、ユッターボクにあった飛行船格納庫が移設されていた。
着陸の際、飛行船は燃料の消費と気温の影響で非常に軽かった。
我々はエンジンを止め、そのために飛行船は動的に低い位置を維持することが出来ずに宙に浮かんだ。
それで飛行船が安定するように、ガスを弁・ダクトを通して頂部から排出しなければならなかった
着陸用索を投下すると、手際よく対応して訓練の行き届いた着陸要員がすぐにそれをつかんだ。
彼らは飛行船を力強く曳いていたが、突風が斜めから吹きつけて飛行船は船尾をちょっと持ち上げられた。
船首を地面に打ち付けるおそれがあった。

急遽、緊急バラスト水を投棄した。
バラスト袋を解放すると、150kgの水が噴出した。
不運にも飛行船はそのとき、主賓の列席しているところに近づきすぎ、その下には一群のドイツ人が居た。
寄りによって、ドイツ人グループのある婦人にバラスト水が掛かった。
彼女はずぶ濡れになり、大理石の柱のようにそこに立っていた。

エッケナー博士は、いままた外交上の紛糾をもたらすことを懸念して、その災難を謝罪しに行った。
しかしそのとき、その婦人は大声で「あら、何て素晴らしいことでしょう! ボーデン湖の水なのよ!!」と言った。
みんな、賑やかに大笑いした。
そうして、この場面は、またしても救われたのである。

着陸場の周囲の広い平地に、非常に沢山の群衆が集まっていた。
遠方からきた一家は、ドイツからやってきた銀色の魚を見逃すまいと、すでに4~5日も野宿して待っていたのである。
担当の日本の将校が、飛行船を近くで見学できるように群衆をもっと近くまで来させてはいけないかとエッケナー博士に訊ねた。
エッケナー博士は考えた「彼らが一度解放されれば、それを阻止することはもはや誰にも出来ない。彼らは記念に銀色の破片を手に入れようとして飛行船を引き裂いてしまうだろう」と。
だが最終的に「貴官が群衆を近くまで寄せ付けないと保障できるなら、私はそれを了承する。」とその将校に言った。
その将校は「承知しました。それは私が保障します!」と答え、軍刀を振り上げて、非常に多くの群衆を飛行船の方へ移動させた。
我々は「ああ、良くない方向に行きそうだ・・」と思った。

先頭が飛行船のおよそ200mに近づいてきたとき、その将校は再び軍刀を振り上げた - 先頭集団は皆ぴたりと止まり、最前線の人達は地べたに伏せ、2列目は座り、3列目は中腰になり - そして最後尾は子供を肩車した。
それは我々にとって信じがたい光景であった。 - これほどまでにしっかり規律が行き届いているというのは、もはや想像を絶するものであった!
そして、ものすごい歓声が上がった。万歳、万歳、万歳!

飛行船は格納庫に運び込まれ、ウェイトをつけてそこに定置された。
乗客は下船した。

それから、一連の歓迎式典が果てしなく続いた。
格納庫の前には大きな式典用天幕が設置されており、そこで我々は飲食を勧められた。
夕方には乗組員全員が茶席に招かれた。
そこで大規模な歓迎式典があり、多くのスピーチが行われた。
しかし、私自身は夜 格納庫に居つづけて8400立方mの水素を充填していた。
我々が下船した直後に、ある将校が私に、自分は格納庫担当士官で、この飛行船の支援担当であると告げた。
彼は私の指示に従うと申し出た。
実際、我々が東京にいた間、彼が我々のそばから離れることはなかった。
私は彼に、ガスを補充できるかどうか訊ねた。
彼は「承知しました。直ちに。部下が待機しています。」と答えた。

23時に終えて、私はその士官と一緒に自動車で飛行場を離れた。
外は大賑わいであった。
至るところでドイツと日本の国旗が掲げられていた。
この真夜中の時間に、日本の半分がここに集まっていた。
気温が高いので、殆どの日本人は薄い衣類を身につけているだけであった。
多くの売店で様々なものが売りに出されていた。
米、提灯、扇子、お土産その他諸々である。
すべて、数え切れない色とりどりの提灯で照らされていた。
要するに、この極東の縁日に私はすっかり魅了されていた。

それから我々は、宿泊所のある航空隊基地に行った。
典型的な日本庭園、小さな階段、橋、多くの石、感じの良い松の間を通って、将校クラブに行った。
玄関の前に2人の伝令が立っており、5回か6回、同じように腰をかがめてお辞儀をした。
私は、自分が支那の皇帝かペルシャのシャーにでもなったような気分であった。
その後、彼らは私に何か食べたいかと訊ねてきた。
私はただ、風呂に入りたいと思った。それにもかかわらず、まず何か飲み物を運んできて、その後、私を裏の浴場へ案内した。

そこには沢山の大きな木桶が、湯気を立てた熱い湯で満たされていた。
私は、一つのきれいな木桶に踏み込んだ - この熱い湯が初めは殆ど耐えられなかった。 木桶のすぐ横には氷のように冷たい水を張った大きな銅の容器があった。 - これが有名な日本の冷温交互浴であった。

気持ちの良い風呂のあとで私は寝室に入った。
そこには蚊帳を張った寝床が用意されていた。
すばやく蚊帳の下にもぐり込んで寝入ってしまった。
シベリア上空を飛んでいるあいだ殆ど眠っておらず、疲れ切っていたのである。

3時にガタガタという大きな音で目が覚めた。
そこに他の人達が茶室から楽しげな様子で戻ってきた。
彼らを連れてきた日本の将校が、私に夜酒を飲むように勧めた。
それで、私はまた冷酒を1杯飲んだ。しかし、それから私はぐっすり眠ってしまった・・・。

翌日の昼食は将校クラブで食べた。そのとき日本の提督が参加していた。
飛行船乗組員全員が着席し、日本の将校がその間に座って食卓についた。
私の向かいにはエッケナー博士が座り、その隣に提督がいた。
日本の箸のほかにナイフ、スプーン、フォークといった欧州式食器類も用意されていた。我々は、もちろん箸を使って食べようと試みたが、多かれ少なかれうまく行かなかった。

まず、高い蓋のついた素晴らしく美しい磁器の茶碗に盛られた飯を貰った。
我々はそれでその蓋を取って飯をある程度食べた。
私が茶碗を食卓に戻すと - すぐに当番がまた飯を盛った。
「やれ、やれ」と思ってまた飯をいくらか食べて茶碗を戻すやいなや、またもや当番が山盛りにしていた。
「これは一体どういうことだ、ここでは飯だけを食べろということなのか?」と自問した。

だが、私は提督が茶碗の飯を食べてから再び茶碗に蓋をするのを見て、そうすると当番はもうそれで来なくなった。
それで私はもう一度、ほんの僅かそれを食べ、素早く蓋を茶碗にかぶせた。そして、これでやっと米飯から救われた。

日本人はナイフやフォークを使わず箸を使うので、肉や野菜を細かく刻んで料理する。
私は「あそうか、だから日本人はミミズを食べるといううわさがあるのか」と思った。それでそのうわさには納得できた。

提督は当然、箸を見事に扱っていた。
彼は20~30cmの麺をつるりと皿から持ち上げて、それを口に吸い込んだ。
その様子は見事だったが、ぴちゃぴちゃと音を立て、ずるずると呑み込んでいた。
エッケナー博士は食卓越しに、私に「見てご覧。ザムト君、いい音を立てているね!」と言った。
皆笑った。ドイツ語のわかる日本の将校も笑った。
ただ、提督だけはそれを見て「一体どうしたのだ?」と言った。
彼は、なぜ皆が笑ったか理解できていなかった。
私の側の将校が「ザムトさん、彼に説明して良いですか?」と訊ねた。
私は「もちろん、どうぞ。面白いですね!」と言った。
そう言われて、彼はそれを提督に話した。
すると、彼はそのいい音を立てて食べたことを転げるばかりに笑った。

別のパーティでは沢山の祝杯が挙げられ、スピーチが行われて、エッケナー博士に立派な年代物の刀が贈呈された。
日本での慣習に従って、客は皆靴を脱ぎ、温かいので欧州人は上着を脱いだ。
エッケナー博士は何をしたか? 彼は刀を帯びたのである。そうして、そのときに刀をシャツの袖につけ、靴下を履いた立派な姿で我々の前に立った。再び、みんなの爆笑が響き渡り、歓声と万歳が起こった。

公式の接待や祝宴は3日間続き、それから我々は世界周航を完遂するために別れなければならなかった。
8月22日の朝、飛行船は出発準備が整って荷物を積み込み、乗客は乗船し、乗組員は配置に着いた。
飛行船は慎重に格納庫から引き出された。
格納庫の出口は、我々の飛行船には非常に狭く、隙間は25cmしかなかった。
飛行船は、出庫・入庫の際に横風で壁に押しつけられることがないように、いわゆるウィンチ台車に繋がれていた。これは小さな台車で、軌条の上を移動するものである。
軌条は格納庫の長手方向に敷設され、およそ300m格納庫の前方に延長されていた。
霞ヶ浦では、我々の到来のために特別に、その飛行船用にこうした軌条が設置されていた。

台車は、飛行船が出庫するときに同じ速度で伴走されなければならないので、飛行船はすべての工程が完了するまで、脇にしっかり固定されていた。
船体の5分の4が既に屋外に出ていて、そこで事故が起こった。

飛行技師ボイエルレは次のように述べている。
「そのとき、左舷側から叫び声が上がり、私の座っていた後部エンジンゴンドラでは突然のショックがあり、聞き覚えのある破裂音が聞こえた。」
左舷の台車が軋み、締め付けられて動かなくなっていた。
飛行船船体の大きな重量では、前進運動に充分早くブレーキをかけることが出来ず、その結果、船体のリングの角に結合されていた後部エンジンゴンドラの鋼線ワイヤを引きちぎった。
それで、「後退!」と号令が掛かった。
関係者は皆、大いに失望した。
飛行船は格納庫の中で修繕されなければならなくなったのである。

格納庫担当士官キリナにとって、この出来事はあまりに大変なことだったので、彼が自ら命を絶ちはしないかと懸念された。
エッケナー博士は、フリードリッヒスハーフェンでも以前に同じ事故が起こったこと、そしてグランドクルーにはこの災害の責任はないと主張することにより、彼を上司たちの前で弁護した。この事故については彼自身も非常に腹立たしく思い、また 規定によってすべてのウィンチ台車は出発前には入念に箒で清掃されなければならなかったことを知っていたにもかかわらず、彼はそう弁護したのであった。

寄港の準備にあたって、飛行技師ボイエルレは飛行船の到着する一週間前にここに来ていた。それでこのような事態に備えて修繕用機材を整備していたので、すぐに応急処置をとることが出来た。夕刻7時に飛行船は、ふたたび出発の準備が整った。

運悪く、午後 台風が東京の近くを通過したため、その夜と翌日の午前中は格納庫に強い横風が吹き、出発と最後の送別式典は延期せざるを得なかった。
恨めしそうにエッケナー博士は格納庫の前の椅子で、風の衰えるのを待った。
午後3時(8月23日のことである)、彼は出発の指示を出し、今回は公式送別式典なしで離陸したが、このときはどんなトラブルもなかった。
何千人もの日本人が、異郷から来た銀色の魚に最後のさよならの挨拶をするまでそこで待っていたが、妨げられることはなかった。

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