LZ127Profile

ツェッペリン世界周航(タバコカードアルバム:第1集)

Zeppelin_Weltfahrten
(表紙)

ZEPPELIN-WELTFAHRTEN


大戦前の飛行船(その2)

1905年の秋に完成した「LZ2」は、「LZ1」に較べて、船体と操舵にさまざまな技術的改良が行われた。
とりわけ、2基の飛躍的に増強された、それぞれ85馬力の駆動能力のあるエンジンを装備していたことは特筆すべき進展であった。しかし、この飛行船は良くない運命に祟られていた。その年の11月30日に行われた最初の航行で、格納庫から曳き出すときに操舵装置を損傷してしまった。
飛行船はボーデン湖のスイス岸近くまで漂って行ったが、並外れた困難のために再度、格納庫に戻された。

その飛行船の2度目の航行は、1906年1月17日に実施されたが、それが最後の航行となった。

激しい西風に押し流され、おまけに1基のエンジンが故障して、アルゴイのキスレグ近郊に不時着を余儀なくされた。繋留された飛行船に襲ってきた嵐が損傷を与え、その結果、沈痛な思いで解体するほかなかった。

第7図を見ると、破壊された飛行船の放置されボロボロになった外被とガス嚢がわかる。

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[第7図:損傷後のLZ2]

新たな大打撃であった。それにも関わらず、伯爵の意志はくじけなかった。資金的に十分な手立てがあったわけではないが、ツェッペリン伯爵は1906年4月に飛行船「LZ3」の新造を始めた。
第1図と第4図からは「LZ1」の2つのゴンドラを結ぶ連絡通路が開放式足場として形成され、ただロープだけで船体に緩く繋がれているのが判る。

すでに初航行のあと、第6図、8図、10図に示すように、広い木造方式に改造され、船体に固定された。

それ以来、この飛行船は運航と積載のために使用された。「LZ1」の外被には、上部をいわゆるペガモイドという特に密な綿布を用い、それに対して下部は普通の防水綿布を用いた。

その後、外被全体に、セロンで防水された同様の綿布が使われた。セロン化することにより、皮膜が収縮するのでその結果、完全に弛まないように展張することができた。
10月初めに「LZ3」は出来上がり、その後「ZⅠ」として陸軍の管理する資産に移行し、その最初の航行は専門家が注目する画期的な成功をおさめた(第8図、9図、10図)。
大戦前の飛行船では、操縦機構がまだ単純な平衡舵しかなかったことは特記に値する。

この建造法では、僅かな重量で機能を維持しなければならなかったので「LZ2」以降、多数の翼を近くに並べたり、あるいは適宜重ねたりして箱型舵に移行した。

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[第8図:後に陸軍飛行船ZⅠとなるLZ3、1906年]

第8図では、2枚の水平安定板の間に、それぞれ3枚の小さな垂直舵があり、飛行船船体両側の船首と船尾に、箱型水平舵を密にそれぞれ4枚並べているのが判る。
今日の建造方式と、どのような違いがあるかは第8図と第118図を較べてみればよく判る。

「LZ3」による航行が成功したことによって、やっとドイツ政府が支援に立ち上がり、水上格納庫の建設が決定された。

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[第9図:LZ3のゴンドラ上のツェッペリン伯爵とその令嬢]

1907年10月1日に、その飛行船は素晴らしい8時間連続飛行で3500キロメートルの航行を達成したあと、政府の機関は、特別な条件を満たせば伯爵の飛行船を引き取る用意があると公表した。
こうした国家による介入、その代理人、とりわけプロイセン陸軍大臣が伯爵の業績を、軟式あるいは半硬式システムと対比して「比類のない」創造であると評価したことは、ツェッペリン計画発展の決定的な転換点となった。

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[第10図:航行中のLZ3]

まず、陸軍大臣の指定した、24時間連続航行という特別条件を達成するために「LZ4」の建造が始まった。

この飛行船の完成は、様々な困難のため、1908年6月まで遅延した(第11図)。

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[第11図:LZ4(1908年)]

ガス容量は15000立方メートルで、直径13メートル、長さ136メートル、載荷重量は4000キログラムであった。
2基のダイムラー・エンジンは合計210馬力を発揮出来た。

伯爵が指令を務め、7月1日にスイスへ12時間連続航行を実施した。
シャフハウゼン - ツーク - ホルゲンパス - チューリヒを経由して、ヴィンターツールに行き、そこから折り返してすべての専門家を興奮させ、大きなセンセーションを巻き起こして大衆の見解に大変革をもたらした。

この航行では、それまで他の飛行船が達成した実績を上回った。ツェッペリン伯爵は勝利したのである。
従って、全ドイツ国民が同様の多大な熱狂と緊張を伴って見守り、諸外国も関心を寄せる中、8月4日朝6時22分に連続航行に出発した。

航行コースは、シャフハウゼン - バーゼル - シュトラスブルクからライン河に沿って下り、オッペンハイム地域に到達したが、そこでエンジンの1基が故障し、そのためライン河畔に中途着陸せざるを得なかった。
その夕刻、再度離陸した飛行船はマインツに到達し、そこでコースを引き返し、シュトットガルトに向かった。

8月5日の朝、クランクシャフトの軸受けから漏洩があり、エヒターディンゲンで再度不時着を余儀なくされた。
側面からカバーで覆い、エンジンの修理をしているときに、突然雷雨が吹き荒れて繋留索を引きちぎり、飛行船は移動してしまった。
突然、飛行船から火焔がメラメラと燃え上がり2、3秒のあいだに「LZ4」は地上に燃え落ちてしまった(第12図)。

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[第12図:エヒターディンゲンのLZ4(1908年)]

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