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大型旅客用飛行船の黄金時代(3)

LowerFin1

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


序: ナチスとエッケナー博士(3)

未来の航洋旅客輸送機関としてツェッペリン飛行船の将来を託され、ツェッペリン社の運営を伯爵から引き継いだのはエッケナー博士であった。しかし、ベルサイユ条約はツェッペリンの工場を破壊するよう求めていたし、ロンドン議定書では大型飛行船の建造が禁じられていたのでツェッペリン社は存亡の危機に立っていた。

この急場を救ったのはエッケナーであった。彼はアメリカに大型飛行船の建造を提案したのである。のちに「ロサンゼルス」と呼ばれるようになる飛行船は1924年の秋に完成した。試験飛行はエッケナーによって、故意に時間をかけて実施され、ドイツの空に再び銀色の船体が誇りと実感を交えた衆目を集めて現れたのである。

レークハーストまで大西洋を横断する納入飛行はエッケナー博士の大手柄であった。彼の次の関心事は、20人の乗客に快適な船上生活を体感して貰いながら航行する有名な「グラーフ・ツェッペリン」の建造であった。エッケナーの指揮する、その飛行船の功績はドイツで実現していたと同じ感激を他の国にもたらしたことである。

ナチがツェッペリン社の権力掌握を行ったのは、ドイツ国内の他の活動と同様に敏速で、1933年1月に実現した。その一方で、エッケナー博士には彼の理想とする50人乗りの、のちに「ヒンデンブルク」と呼ばれる大西洋横断旅客飛行船の建造を財政的に可能にした。最初に宣伝相ゲッベルス博士は新しい飛行船に2百万マルクの予算をつけた。次いでゲッベルスのライバル、航空相ヘルマン・ゲーリングは9百万マルクを申し出た。しかし、エッケナーはそれを受け取らなかった。エッケナーはツェッペリンが茶色シャツ政権の付属物になり、プロパガンダに使われることを承知していたのである。

ゲッベルスは飛行船の船体中央に赤地に白の円を描き、その中に黒い鉤十字を描いたナチの旗を上から下まで巨大なサイズで描くように要求した。エッケナーの取り得た最良の妥協案は鉤十字の旗を垂直尾翼に描くことであった。

それからゲーリングはエッケナーにドイツ・ツェッペリン輸送会社(DZR:Deutsche Zeppelin Reederei)の組織を通じて支配を受けるように強制した。ドイツ・ツェッペリン輸送会社は国営定期航空会社ルフトハンザの子会社であった。

国際人で世界的な視野を持ち、アメリカその他の国に多くの交流を持つエッケナーは暴力団のようなナチとその野蛮なやり方が大嫌いだったので、出来るだけ抵抗したがあえて表だって反抗はしなかった。

こうして、ゲッベルスは「グラーフ・ツェッペリン」と新しく完成した「ヒンデンブルク」が、プロパガンダのチラシが降り注ぎ拡声器による選挙運動の演説が行われ、国民投票の実施された1936年3月29日の前に3日間の飛行を要求したとき、エッケナーは同意せざるを得なかった。しかし、この場合、大型飛行船を運航する彼自身がナチの狙いであったことは彼の想像も及ばないことであった。

ナチはツェッペリン社の先任船長の1人、エルンスト・レーマンを「ヒンデンブルク」に船長に要望した。エッケナー博士は、ただ「飛行船が政治目的に使われるようになれば、飛行船の終わりの時である。」と答えるしかなかった。

数年前、DELAG第2の飛行船指揮者に初めて任命されたとき、エッケナーは期待した群衆が見守るなかで著名な乗客を満載して「ドイッチュラントⅡ」を横風の吹きすさぶ状況で格納庫から引き出そうとしていた。そのとき飛行船は風で地上員を振り払い、損傷してしまった。このとき誰も怪我をしなかったのは不幸中の幸いであった。それ以来、エッケナーは一貫して安全のために群衆の見学を断り、彼の部下にも同じように細心の注意を払って行動をとるよう指示していた。

「ヒンデンブルク」をフリードリッヒスハーフェン・レーヴェンタールの格納庫から引き出すときはちょっと状況が異なっていた。格納庫は東西方向に向いており「ヒンデンブルク」の船首は西向きであった。そこに東から秒速8mの突風が吹いた。吹き下ろし状況下で離陸せねばならなかった。通常の風の中の離陸よりさらに難しい操船が必要であった。

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