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大型旅客用飛行船の黄金時代(2)

DrEckener

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


序: ナチスとエッケナー博士(2)

多くの人達の熱意に後押しされて、ツェッペリン伯爵はドイツ国内の多くの大都市周辺で愛国的市民に2時間の体験飛行が出来るように格納庫を整備し、旅客用飛行船の運航を用意した。

世論に促されるかたちでドイツ陸軍はツェッペリンを敵の後方に対する長距離偵察に採用し、海軍は北海における英国艦隊の索敵に使用した。その頃、ドイツの狂信的愛国主義の新聞は仮想敵国が恐ろしい空襲を仕掛けてくる可能性を報じ、イギリスでは昼間に空飛ぶ円盤を見たという話より幻のツェッペリンが夜間侵攻して来るというデマの方が珍しくなかった。第一次世界大戦が始まると、ドイツ人はツェッペリンに最初の戦略爆撃に対する確信的な期待を寄せた。

ドイツは特別な国であり、敵国の都市を廃棄物で埋め尽くし、そこの住民を恐怖に陥れその指導者がドイツに和平を懇願すると思うようになった。戦争のあいだにドイツの陸軍と海軍に88隻のツェッペリンが就役し、終戦前の夏までに敵に対して爆撃を行ったが防空戦闘機により多くのツェッペリンが炎上し連合軍を跪かせることは出来なかった。

ツェッペリン伯爵は幸運にも彼の発明した飛行船が軍事兵器として失敗したことを生きて見ることはなかった。彼は1917年3月8日に亡くなっている。

伯爵は将来起きる戦争に大型飛行船を、制空権を握る兵器として活躍させることを考えていた一方で、その非常に大型で長大な航続距離と載荷能力が大洋横断旅客船に適していることを知っていた。この考えはイギリスが軍事用ツェッペリン飛行船を真似て作った「R34」が30人の乗客を乗せて大西洋を無着陸で往復した1919年の夏から、間接的ながら実現に向かっていた。

この年、冒険飛行家達は著しく過積載の飛行艇でニューヨークからニューファンドランド・アゾレス・ポルトガルをたどる困難な最初の大西洋横断に苦労していた。

ツェッペリン社では、この大型硬式飛行船で大洋を横断して旅客輸送が任せられる信望のあるのは1人の男で、その男でなければ達成できないと考えていた。それはフーゴー・エッケナー博士である。

バルト海沿岸のフレンスブルクで1868年に生まれた熱心な外洋ヨットマンであり、社会経済学を専攻したエッケナーは偶然ツェッペリンの企業に関わることになる。健康上の理由でフリードリッヒスハーフェンに移り住み、そこで「資本不足か、労働力不足か?古い問題に対する新しい解答」という政治経済学の論文を執筆していた。

ここで彼はツェッペリン伯爵の初期の実験に興味を持ち、1909年に対外広報担当役員として組織に加わることになる。ほどなく、エッケナーはもっと活動的な仕事がやりたくなった。最初の商用ツェッペリン飛行船が遭難したあと、エッケナーは次船の指揮者になった。それ以来、彼はDELAG(Deutsche Luftschiffahrts-Aktien-Gesellschaft:ドイツ飛行船運輸会社)の乗務役員となった。

彼自身、世界で初めての定期旅客輸送会社の経営方針や、操船・運航の規範を確立するという前例のない立場に立ったエッケナーは、風や天候を何度も経験して得た独自の考え方を提起した。全乗組員に、訓練を通して航空力学の理論や気象学、あらゆる天候における操船実務を身につけ効果的な全天候飛行業務を確立すべきであると説いた。

1910年から1914年までの間、DELAGは4隻のツェッペリン飛行船で1588回飛行を行い、10197名の乗客を、1人の死者も重大な怪我もなく済ませることが出来たのはエッケナーの功績である。

第一次世界大戦の勃発とともにドイツ陸海軍の飛行船部隊は突然拡大され、DELAGは経験者を訓練指導に提供することになった。

エッケナーは、ドイツ海軍飛行船の輝かしい指揮官であるペーター・シュトラッサー中佐の技術面・運用面での指導者になった。

それは50隻以上の飛行船乗組員、人数にすると千人を超える人間の訓練に責任を持つということであった。

こうして、戦争末期にはエッケナーは大型飛行船の膨大な量の技術と運用に関わる知識と経験を蓄積していた。このことにより彼の多大な知識と説得力のある人格が全期間を通して最も偉大な飛行船指揮者となったのである。

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