LZ127Profile

大型旅客用飛行船の黄金時代(13)

KurgartenHotel

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第4章: フリードリッヒスハーフェンでの生活

ジョージ・ルイスと私は1934年5月25日金曜日にルアーブルに上陸した。汽車でバーゼルに行き、そこで一泊しフリードリッヒスハーフェンには5月26日土曜日の昼ころ到着した。

ジョージと、我々と同行した海軍少佐ジョージ・H.(「ショーティ」)・ミルズは、その夜「グラーフ・ツェッペリン」で南米に発った。私の番は2週間後の6月9日に出発する第2便になっていたので、住まいに落ち着いてツェッペリン飛行船製造社の人達と知り合う時間が持てた。ツェッペリン社の人達が、その当時建造の初期段階であった新しい(後に「ヒンデンブルク」と命名される)「LZ129」に関する情報を提供してくれることを期待していた。

その後の5年間の大部分を過ごした、現地での住居フリードリッヒスハーフェンは魅力たっぷりの町であった。コンスタンス湖(ドイツではボーデン湖)の湖岸にあるフリードリッヒスハーフェンは人口1万人規模の町であったが1934年当時約2万8千人が住んでいた。湖の北に位置しており、湖の向かいの南側には頂きに雪を被った高さ8215フィートのゼンティス山などスイスの山々が見えた。

後日、私は山が好きになり、よく週末に山登りに出掛けた。ラインの上流は61平方マイル程しかないリヒテンシュタイン公国の西国境になっており、スイス側でコンスタンス湖の南東隅に注ぎ、38マイルもある長い湖を南西端からバーゼルに達している。湖周辺の町は古く、絵のように美しかった。ドイツ側のコンスタンツには有名なインゼルホテルがあり、木彫りの町ユーバーリンゲン、17世紀に建てられた古城のあるメーアスブルク、フリードリッヒスハーフェンのすぐ傍にはツェッペリン伯爵が1900年から1909年まで初期の6隻の飛行船を建造したマンツェルの町があった。

町の長老連の勧誘で工場をフリードリッヒスハーフェンに移したのは1909年のことである。その工場は町の北側にあった。2棟の巨大な格納庫のほかに、1916年には「グラーフ・ツェッペリン」を建造した格納庫、1930年には「LZ129」をまさに建造中のさらに大きい格納庫のほかにマイバッハの発動機工場と歯車工場も併設されていた。

マンツェルの工場はドルニエの航空機工場になっていた。

湖の東端にはヴァッサーブルクとリンダウというリゾートの島が絵本のような佇まいを見せていた。オーストリアの町ブレゲンツは、近隣の山岳の中で一番高く湖の雄大な展望が楽しめるパンダーバーン岳で有名である。スイス側にはアルテンハインの町があり、ライン川はここで湖に流れ込んでいる。ロマンスホルンはフリードリッヒスハーフェンのちょうど対岸にあり、小さな蒸気渡船が連絡しコンスタンツの街のスイス側のクロイツリンゲンも湖の南側にある。湖岸の町のあいだは葡萄畑などが広がっているが、その殆どが丘の南向き斜面のドイツ側にあった。

我々がフリードリッヒスハーフェンで最初に身を寄せたのはツェッペリン飛行船製造社が所有し運営する、その当時南ドイツで最高級のクアガルテンホテルであった。間もなくジョージと私は、ドイツ人の家族と一緒であったが自分達の住居を、2人で月80マルクで借りた。サービス料が10マルク、朝食が1人あたり3/4マルクであったが自分達の石炭は買わなければならなかった。問題は毎日ドイツ人と会話することであった。

ツェッペリン飛行船製造社の技術スタッフは上手な英語を喋るが、私は彼らの言葉を習うのがよいと思った。私はマサチューセッツ州ロレンスの高校で2年間ドイツ語を習ったが、ジョージ・ルイスと私が1934年5月から翌年7月まで、初めてフリードリッヒスハーフェンに行ったときは当然英語で話した。1935年10月から翌年6月まで、2度目に1人で戻ったときは連れはなく、その辺りに誰も英語で話をする相手が居なかったのでドイツ語に習熟しなければならなかった。

そこで近くの修道院の23歳の女性から週に3回、ドイツ語のレッスンを受けることにした。外国語の習得は、決してお茶を飲むように簡単には行かず、はじめのうちはあまりに馬鹿げた間違いに自嘲しながら学ぶほかなかった。

私のアクセントにドイツ人達は困惑した。フリードリッヒスハーフェンはコンスタンス湖畔にありバーデン・ヴュルテンブルクに属しており、ババリアも近くであり私はシュヴァーベンのアクセントや方言を使ったことがあった。このため、ある意味でオランダに隣接しているドイツ北部の低地ドイツに似ている私のニューイングランド風アクセントと混同し、話し相手に北ドイツから来たのか南ドイツなのか聞き分けることが出来なかったのである。

ジョージが1934年の「グラーフ・ツェッペリン」の最初の大西洋横断飛行に乗船している間に、リッチフィールド氏とアルンシュタイン博士から頼まれていた情報を送るように言われていたツェッペリン社の人物と知り合いになるように努めた。

私は工場全般のエンジニアリングと設計に関して最初にルードヴィッヒ・デューア博士を訪ねた。デューア博士は1899年にツェッペリン伯爵のスタッフに加わり、1901年から主任設計者となった人物である。1934年当時56歳で、社長であるエッケナー博士のもとで設計と建造を見ていた。

そのほかには構造設計のアルバート・エーレ、応力解析のアルツール・フェースター、動力機関のフリッツ・シュトルム、計装と電気のエーリッヒ・ヒリガート、風洞と推進器のマックス・シアマー、地上操船装置のアルフデッド・コルブを訪ねた。気嚢はベルリン・テンペルホフのバロン・ヒューレン社で作られており、そこのシュトロブル氏にも連絡を取った。1938年にはフェースターは応力解析の主任者と構造設計責任者を兼務した。これらの人々が皆 最大限に協力してくれ、質問に答えたり情報の提供に躊躇することはなかった。彼らと一緒に仕事をすることは楽しかった。

まもなくフリードリッヒスハーフェンに居ることが非常に心地よくなってきた。独身であったがそれほど合衆国に帰りたいと思うこともなく、週末には気分転換に同社のドイツ人の友人達と、近くに聳えているスイスやオーストリアの山に登ったりスキーに行ったものである。

第3章: グラーフ・ツェッペリン(4)へ

第5章: クヌート・エッケナーとその父へ

トップページに戻る