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大型旅客用飛行船の黄金時代(12)

Weltfahrt1

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第3章: グラーフ・ツェッペリン(4)

これと同じ、壮挙は1929年に実施された「グラーフ・ツェッペリン」の世界一周飛行である。これは航空機で地球をひとまわりした第2回の世界周航であった。最初の世界一周は1924年に2機の米国陸軍機により、69箇所に着陸して175日かけて実施されている(註)。

ウィリアム・ランドルフ・ハーストは「グラーフ・ツェッペリン」の世界飛行に10万ドルを拠出した。その条件はニューヨーク港の自由の女神像を起点とし、1929年8月5日にフリードリッヒスハーフェンからレークハーストまで飛び、2日後に22人の乗客を乗せて東航することであった。乗客の中には米国海軍の飛行船「ロサンゼルス」の船長であるチャールズ・E・ローゼンダール中佐、海軍大尉ジャック・リチャードソン、ドラモンド・ヘイ女史、それに極地探検家ヒューバート・ウィルキンスがいた。

大型飛行船はフリードリッヒスハーフェンで5日間の寄港のあとドイツの記者、ロシアと日本の政府代表を含む20人の乗客を乗せて出発した。選定された航路は、シベリアを横断して、乗客が眼下に見える陰鬱で何もない湿地と、快適で豪華な「グラーフ・ツェッペリン」のキャビンの対比に驚嘆するように大圏コースに沿う北よりのルートであった。スタノボイ山脈を越えるために6千フィートまで上昇した「グラーフ・ツェッペリン」は東京に向かい、そこの霞ヶ浦海軍航空隊でドイツから移設再建された格納庫に入渠した。フリードリッヒスハーフェンからの飛行時間は101時間49分であった。

8月23日に「グラーフ・ツェッペリン」は合衆国西岸に向けて飛び立ち、8月25日午後4時にサンフランシスコのゴールデンゲートにドラマティックな入港を果たした。そこからカリフォルニア海岸を南下し、次の繋留地ロサンゼルスに着地した。8月26日の夕刻、離陸のための上昇に失敗し、逆さまになって昇降舵の操縦索に障害が起きて緊張した瞬間があった。その後のレークハーストへの飛行は順調で、9月4日に「グラーフ・ツェッペリン」はフリードリッヒスハーフェンに戻った。この「アメリカの」世界飛行の飛行時間は12日と11分であった。

世界注視の的であり、熱狂的な雰囲気をもたらすエッケナー博士によるドラマティックな地球一周飛行は乗船した20人の旅行者達にクルーズを満喫させ、アメリカの融資家の興味を呼び起こした。もし、2ヶ月以内に起きた株式大暴落がなければアメリカ資本が参加する海洋横断飛行船航路を促進することになっていたかもしれない。

1930年5月18日から6月6日まで「グラーフ・ツェッペリン」は初めての南米飛行を行った。最初にセヴィリアに寄ってスペイン国王の従兄弟であるインファンテ・ドン・アルフォンゾ・オルレアン氏を含むスペイン人の一行を乗船させた。飛行船はカナリー諸島、セントポール岩、フェルディナンド・デ・ノロンナを経由してブラジルの北東端ペルナンブコのレシフェまで飛行した。大飛行船はそこで2日間マストに繋留し、その後リオデジャネイロに向かった。ここには繋留施設がなかったので滞在は短かった。その後レシフェに戻り、さらに2日間そこに留まった。

そこから「グラーフ・ツェッペリン」はレークハーストに行き、そこで格納庫に収容されてアメリカ人が「ロサンゼルス」のために開発した携行用繋留マストを紹介された。アゾレス経由の帰途、ツェッペリンは再びセヴィリアに着地してスペインの客人を降ろし、ローヌ渓谷を上ってフリードリッヒスハーフェンに帰投した。

最後の有名な探検飛行は1931年に実施された。この飛行で「グラーフ・ツェッペリン」は4ヵ国から参加した12人の科学者と2名の記者(そのうちの1人は小説家アルツール・ケストラーであった)を乗せてレニングラードを経由して北極に向かった。7月26日から30日までの5日間に、飛行船はフランツヨーゼフランドに進出し、ロシアの砕氷船「マリギン」と郵便物を交換するために水面に降下した。ここ数年間「グラーフ・ツェッペリン」の飛行に多大な経済的支援をしてくれた郵趣家のためであった。その後、気球によって上げられたラジオゾンデにより気象観測を行い、観測機器による地磁気の観測をしたあと「グラーフ・ツェッペリン」はセベルナヤゼムリヤの西海岸まで飛行し、この未知の地域をパノラマ写真で測地した。これらはチェリスキンからディクソンへブンに至るシベリア沿岸の探査に引き継がれ、さらにレニングラードに戻るまでのノバヤゼムリヤの測地まで続けられた。科学的成果とは別に、この飛行は広報の面での大きな功績でもあった。

キャビンの内装を更新したあと「グラーフ・ツェッペリン」は1931年の秋に南アメリカに3回 旅客を乗せた計画飛行を行っている。

まだリオには基地の設備がなく、飛行はペルナンブコで終わり、乗客はそこからドイツのコンドルエアラインでブラジルの首都に行かなければならなかった。この一連の飛行が成功したのでツェッペリン社は南米航路に集中することになった。1932年には9回旅客飛行を行い、翌年にはさらに9回飛行している。ブラジルのバルガス大統領は招待されてペルナンブコからリオまで乗船し、サンタクルズに飛行船基地の建物と格納庫の建設を支援することに同意した。

1933年1月にナチ政権が成立し、早速「グラーフ・ツェッペリン」とツェッペリン社に圧力が掛かり始めた。5月1日、メーデーに「グラーフ・ツェッペリン」はベルリンで開催された百万人のブラウンシャツ(SA:突撃隊)の祝典に姿を現した。10月には飛行船もドイツ民間航空条令の適用を受けることになり、尾翼の左舷側にナチの旗(赤地に白の円を描き、その中に黒で鉤十字)を描き、右舷側には黒・白・赤の横縞のドイツ国旗が描かれた。その月、フリードリッヒスハーフェン、リオとオハイオ州アクロンのグッドイヤー飛行船基地を結ぶ三角飛行でエッケナー博士は「ナチ飛行船」に対する敵意にうろたえ落胆した。「グラーフ・ツェッペリン」が招かれてシカゴ万国博に現れたとき、非常に強烈な印象だったのでエッケナー博士は舵手に命じて街を時計回りに旋回させた。地上から、ひどく嫌われた左舷側の鉤十字が見えないようにしたのである。

南米旅客事業が運航上も採算的にも成功したのでツェッペリン社は1934年に2週間間隔で12回の往復運航を計画した。最初の飛行はフリードリッヒスハーフェンを5月26日に離陸し、最終便は12月8日であった。

私が1934年6月9日にフリードリッヒスハーフェンを出発した第2便と、夏から秋にかけてさらに5回、この飛行に携わることが出来たことは非常に幸運であった。

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第4章: フリードリッヒスハーフェンでの生活(1)へ

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