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大型旅客用飛行船の黄金時代(11)

LZ127ceremony

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第3章: グラーフ・ツェッペリン(3)

1928年7月8日、ツェッペリン伯爵の90回目の誕生日に、伯爵の一人娘であるヘラ・フォン・ブランデンシュタイン・ツェッペリン伯爵夫人が、その飛行船に父の名前を命名した。しかし、完成前の細かい工事が多少残っていたので9月になってから試運転が開始された。

5回の試験飛行のあと飛行船は40人の乗組員と20名の乗客を乗せてアメリカに向かってフリードリッヒスハーフェンを飛び立った。1928年10月11日のことである。乗客のうち6名は記者であったが、そのなかにハースト新聞の特派員カール・フォン・ヴィーガントとグレース・ドラモンド・ヘイ女史がいた。このような強力なアメリカの新聞王との密接な関係のうちにツェッペリンの飛行は始まった。ウィリアム・ランドルフ・ハーストは後の多くの飛行にも多額の寄付を寄せている。この2人の記者は「グラーフ・ツェッペリン」と、後には「ヒンデンブルク」にも何度も乗船している。

多数の新聞社から招待された記者たちは身振りを交えて賑やかにエッケナー博士のもとに押しかけてきた。博士は飛行船の価値を認識しており、ドイツやアメリカの一般の人達に前向きなPRを行ったばかりでなく、アメリカの資本家に大西洋横断飛行に財政的支援を行うよう説得できるかも知れないと思われた。

その時期、大西洋の両側で新聞の読者たちは飛行の進展に関する記事と、冒険飛行家の功績を渇望していた。今日、毎日文字通り数百人の人達が巨大なジェット機で音速に近い速度で当たり前のように大西洋を横断しており、もはやそんなことは記事にもならない。しかし、初めて北大西洋を横断してまだ10年も経っておらず、ニューヨークからパリまでリンドバーグが単独飛行に成功したのが僅か16ヶ月前であった1928年にはアメリカまでの飛行は激しい熱狂で迎えられた。

遂に20人の乗客が、豪華で快適なプルマンカーに乗車するように大洋を横断するときが来たのである。アメリカには4日以内に到着すると予想されていた。確かに「グラーフ・ツェッペリン」がレークハーストに無事に到着するまで毎朝、新聞の一面を飾るエポックメーキングな出来事であった。

ツェッペリンがジブラルタル海峡を通過してマデイラに行くまでは全てが順調であった。10月13日の早朝、嫌な青黒いスコールが北西の方向に見えた。未だ不慣れな昇降舵手は前線を通過するとき、飛行船を乱暴にも上下に15度傾斜させてしまった。飛行船の骨組みに損傷はなかったが、左の水平尾翼の底面カバーが異常な動圧で裂けてしまった。エッケナー博士は手助けが要るか聞きに行かせたが乗組員が修繕しながら飛行を続けた。

10月14日にバーミューダの西でも別のスコールに遭い、左水平尾翼の上部カバーが少し裂けた。「グラーフ・ツェッペリン」は災害を避けるために針路をアメリカに向けてそこを逃れた。エッケナーはワシントン・ボルチモア・フィラデルフィアと勝利の巡航を行い、レークハーストに着陸するまえにニューヨーク上空を飛翔し名声を挙げた。

損傷した尾翼の修理には12日を要し、大きな飛行船は10月31日になってやっとフリードリッヒスハーフェンに戻った。

乗客を乗せての大西洋横断はセンセーションを巻き起こした。しかし、エッケナー博士は「グラーフ・ツェッペリン」は北大西洋を定期運航するには小さすぎ、遅すぎることを既に承知していた。

「グラーフ・ツェッペリン」の8年間の就航期間中、北大西洋を横断したのは7回だけである。

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第3章: 「グラーフ・ツェッペリン」(4)へ

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