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ツェッペリン:世界航空事業の開拓者

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戦時および戦後のツェッペリン飛行船

長距離飛行船「グラーフ・ツェッペリン」の建造

従来のDELAG飛行船は短期間の航行を前提として計画されていた。
我々は「グラーフ・ツェッペリン」で5日間滞空出来るように計画した。
従って、乗船客と乗組員のために日中過ごすスペースと寝室、それにトイレット、洗面所を利用できるように計画を行った。
電気で調理する厨房を船上に準備して担当者を配員し、暖かい食事を用意できるようにした。

ツェッペリンの船上では、航洋客船に近いサービスを提供できるように豪華に装備された。
乗客用キャビンには外の見える窓を設け、その一部は開放可能とした。
サービスを提供するために立派なサロンを設置し、糧食も用意して居心地良く過ごせるようにした。
また、飛行船上では乗り物酔いにはならない。

我々は「グラーフ・ツェッペリン」を運航実験船・調査/探査船として長大な航続距離をもたせるだけでなく、それによって本格的な長距離運航事業を目論んでいた。
ツェッペリンは特にそのために、大洋と大陸を超える全地域で、いかなる天候でも運航を行う航行実験を計画していたのである。
飛行船の大きさは格納庫の収容寸法から、総容量1万5百立方メートルに限定されが、さらに大きい新格納庫が必要になった。
その格納庫は「ヒンデンブルク」のために建設された。
「グラーフ・ツェッペリン」の長さは236.5メートル、最大直径は30.5メートルであった。
その原動力は、出力550馬力の12気筒マイバッハエンジンを5基装備し、その平均時速は毎秒31メートルを達成することが出来た。

その前に建造された「ZRⅢ」が「離陸!」の号令で発進してから4年の月日が経過していた。
1928年9月に「グラーフ・ツェッペリン」が最初の工場試運転に離陸したときは、とても精神を高揚させる瞬間であった。
「グラーフ」はすべての期待を充分に満足させた。
その最初の航行で、その飛行船が悪天候でも充分に機能を発揮することを確認することが出来た。
ボーデン湖畔、ブレゲンツの一角で、雷雨の中を航行しなければならなかったのである。
10月には、総仕上げの34時間継続の試験飛行を実施した。[越家註:9月18日の間違い?]
飛行船はドイツ全土を飛行し、北海まで航行した。
イギリス海岸で相当多くの標識燈がぴかぴか光っているのが見えた。
どんな状況の変化にも対応することができていた!
はじめて乗客を乗せて長い航行をしているとき -穏やかに夕食についていたときのことである- 眼下を航行する船舶がサイレンを鳴らして挨拶していた。

1928年10月11日、「グラーフ」は合衆国への最初の航行に出発した。
船室はすべて満室であった。各国から来た多くのジャーナリストが報道のため乗船していた。
我々はフリードリッヒスハーフェンから、ローヌ渓谷を通って地中海へのコースをとった。そこでは、海峡の前に強い低気圧があり、遠く南に張り出していた。
我々は真夜中にジブラルタル海峡を通過した。

我々は、この飛行船の運航にすっかり慣熟していた。
航続時間を延長することにより、我々は従来のようにそれぞれの配置に、2倍の乗務員をのせることで対応することが出来なくなっていた。我々は3直システムで運航にあたった。そうすることによって、船長を含むすべての配置を4時間の当直で交代し、8時間の休息を取ることにしたのである。従って、どの配置にも常に職務を引き継ぐ継承者を置くことになった。これにより、最大で46名の乗組員により高い職務遂行が可能となった。

我々の航行は、誰に妨害されることもなく順調に進展していた。若干の乗船客は何もセンセーショナルな報道に値するようなことが何もなく、蒼穹と眼下に横たわる海を眺めながら常時自然と親しむ、殆ど退屈に感じる航行に失望したようであった。
そうして3日目の朝、航行して大洋の中央に到達したとき、黒い雲の壁が我々の前にせり上がってきた。
側面に回避する手立てを発見することが出来ず、我々はその黒雲に入った。
何事もなく飛行船は船首を雲に突入したが、そのとき一陣の突風が吹き、強い力で上へ押し上げられた。
しかし、その次の瞬間ツェッペリンは吹き下ろす気流を受けた。気流に飲み込まれて、飛行船はかなり高度を失ってしまった。急いで昇降舵で船首を上げた。そのために大傾斜を生じてしまった。サロンで朝食を摂ることが出来なくなった。
通常であれば、ツェッペリンで(荒天時の海上船舶のように)テーブルの縁を防護する必要はない。しかし、このときばかりはカップ、皿、コーヒーポットなどが滑り落ち、磁器の食器が砕けてしまった。
しかし突然の騒音で、飛行船内で乗船客が驚いて右往左往するので、急いで駆けつけてなだめたがまもなく静かになった。

飛行船には、見回したところ特に被害はなかった。だが、船内通路を点検した結果、左舷水平尾翼の外被が裂け、その端切れがばたついて昇降舵が危険にさらされていると報告してきた。
指令の子息であり、船体技師として熟知している工学士クヌート・エッケナーを責任者に補修班が編成され、フレームによじ登って剥がれた尾翼の端切れを裁ち切ることになった。
通常の航行では気流が足場もなく作業する補修班に危険が及ぶことになる。従って著しく速度を落として航行した。しかし、雨のなかの突風で重くなった飛行船は沈下しはじめた。飛行船は失速して、既におよそ100メートル沈降しており、上張りのない骨格につかまって補修に当たっているのであったが、エッケナー博士はエンジンを作動させねばならなかった。
何とかぎりぎりで応急処置を終えるところまでこぎ着けた。そして、残りの航程をエンジン全開で航行することが出来なくなっていた。しかし、出力を半減して「グラーフ」は順調に操縦することが出来た。そうして夕刻に飛行船はバーミューダ諸島に到達することが出来た。

乗船客は、この危機の瞬間にとった態度は立派であった。イギリス人の新聞特派員、ドラモンド=ヘイ女史は皆に率先して踏みとどまった。彼女はサロン後部の隅に掛けていたが、皆がコーヒーテーブルで慌てているときも彼女はユーモアを失うことはなかった。
また、皆が応急手当の成り行きを心配しているときに、彼女はもうタイプライターでレポートの続きを書いていた。

世界中が我々のトラブルを報じているたが、我々は翌朝アメリカ沿岸に到達していた。
ニューヨークではすべてのサイレンを鳴らして歓迎し、まわりを無数の飛行機が旋回しているなかで我々はまたニューヨークに来たのである。
そしてまたしても10万人を超える多数の人々が広場で押し合い、10月15日の夕刻着陸したときには熱狂した歓呼がわき上がった。格納庫への引き込み作業は、まわりを取り巻き離れない群衆のために難渋を極めた。その広場で下船を敢行する何人かの乗客は、警官の巧みな誘導で -英雄のように歓声で迎えられ- 格納庫内の通関スペースで入国手続きを済ませることが出来た。

エッケナー博士と乗組員の一部は、翌日ニューヨーク市長の歓迎を受けた。その街を市役所まで行進するときには「ZRⅢ」を移送したあとの凱旋パレード -自然発生的に起こった熱狂と喝采- の興奮が、まだ長く尾を引いてるようであった。州境を超えて航行して迎えられた、大統領の歓迎はシカゴのスタジアムで途方もないパーティとなった。アメリカ人はエッケナー博士を丁寧にもてなし、彼のまわりではパトロールカーの耳を聾するサイレンが鳴り響き、絶えず警察の護衛で街を往くことになった。

14日間の滞在のあいだ、飛行船の破れた尾翼は補修されていた。我々は10月29日の夕刻、24人の乗船客を乗せて復航に旅立った。翌朝、25人目の乗船者が見つかった。彼の話では郵嚢と一緒に潜り込んだと言う。彼は我々と一緒に大洋の広さを満喫することになったが、彼の処遇が決まった。この航行で初めて盲目の乗客を乗せていたのであるが、エッケナー博士は彼に罰として厨房で食器洗いを命じたのである。着陸のあと、多くの若者が関わるようになったが、航行中彼は司厨長のもとで行儀良くしていた。

この航行では強い追い風に助けられて高速で飛行した。時には時速100キロメートルを越していた。
空は雲で覆われていたが、ときどき月光に鈍く光る氷山が流れているのが見えた。この航行は沸き立つ海面を見ながらとても速く走った。エッケナー博士は、天候を正しく嗅ぎ知るという噂を立証したのである。
まもなく我々はふるさとに帰った。そしてアメリカにおける歓迎と同じように祝砲と膨大な群衆に迎えられた。フリードリヒスハーフェンには自動車も隊伍を組んで駆け寄っていた。
我々は、その最初の大洋横断を往復とも達成し満ち足りた実績に達成感を感じた。そして多くの新しい経験を積んだ。エッケナー博士は、歓迎パーティで、それを次のように述べている。
「我々は飛行船で大洋を航行することが出来ることが判ったが、定期運航を行うためには、まだ多くのことを学ばなければならない。」

11月5日にベルリンまで航行した。
乗組員の殆どは歓迎会のあと、ヒンデンブルク大統領の招きで街を進んだ。
20年の間に何という変化であろう!
ツェッペリン伯爵とデューアは最初の飛行船のために終わることのない困難に取り組んでいた。今日では首都へひとっ飛びすることは、何ら問題のない当たり前になっている。

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