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ツェッペリン:世界航空事業の開拓者

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私はこうして飛行船乗りになった

その道程と迂回路

いまでも1914年10月26日のことを思い出す。
その日は、私が初めてフェルディナンド・ツェッペリン伯爵を見た日であった。
私はいま、75歳であるが、飛行船の発明家で、かつては騎兵将軍であり、当時のすべての人によく識られたその偉大な高齢の人物が、若い見習士官の前に突然現れたときの驚きを、いまでも生き生きとその場面を思い浮かべる。
それからもいろいろなことがあった。

私は最初、飛行船乗りになろうなどとは思っていなかった。
1891年にシュレスヴィヒ州のカッペルン近郊のブックハーゲンで生まれ、そこで海洋に慣れ親しんで育った。
両親の土地で7年間過ごし、それからハンブルクのペンションに入った。
そこで学校教育を受けた。
その後、私はヴァンズベックに行った。
私はそこで、生涯で初めて空を飛んだのである - 残念ながら、ほんの短時間ではあったが・・。

ホルスタイン州のプレンに「上陸」し、そこで1912年に高校卒業(大学入学)資格を得た。
それから、ドイツ帝国海軍に入って士官候補生になった。
1914年の動員で、私は見習士官としてゾンダーブルクの砲兵課程に入った。
私に指定された任務は古い戦列艦(註:主力艦)に配乗となり、指定された日から29日目までに着任しなければならなかった。
長時間、そうしようと考えていたが結局それまで待つことが出来なかった。
当時、戦争は2~3日の短期間で終焉すると考えられていたのである。
それで私は、海軍で話題になっていた別の任務を「果たす」ことに挑戦しようと思った。
知り合いの魚雷艇艇長に、彼の好意に甘えて乗り込ませて貰うことである。
しかし、我々は北海に一度も出航したことがなかったのであるが、ピラウ港を出港し海難事故の救難任務についた。船舶の修理は3ヶ月に及んだ。それで、私の決心を達成出来ない悩みをつのらせた。

私は、実は海軍航空隊に行くことを切望していたのである。
既に生徒であった1910年に、キールの競馬場で初めて飛行機の離陸を見ていた。
当時デンマーク人、エレハマーが自分で製作した飛行機器で、地上からおよそ1メートル半浮き上がり、350~400メートル飛んだのである。
私はそれを見てとても感嘆した。
1年後、私は再び次の航空ショーを見ている。そのときはもっと行動的であった。
私はハーラン単葉機を飛ばそうとするひとりの中尉、ヤノウと知り合った。
組立工のリーブハーバーは、私に出発の準備のために機械を格納庫まで押してゆくことを頼み、そのかわり私を同乗させると言ったのである。
彼は私に約束はしたものの、彼はまず試験飛行をしなければならなかった。新しいエンジンを受け取ったばかりであったからである。
そして彼はスタートしたが、すぐに不時着してしまった。
このトラブルで彼は腕を折り、それで約束した私の最初の飛行機会が潰え去ってしまった。

しかし、それで後日私は幸運をもたらすことになる。エトリヒト=タウベ -ルンプラー=タウベとも呼ばれる- で飛行を経験し、それで私は夢中になった。
それ以来、私は空へのあこがれを持ち続けていた。

魚雷艇の艇長は私を理解してくれた。彼の承認を得て私はキールに行った。
夜そこに着き、翌朝ホルテナウの航空基地に出頭し、そこで私は航空隊に加わりたいという心情を強く訴えた。
「判った。見習士官、我々は君を入隊させよう。しかし、君はまず本務を尽くすことだ!」
私はホテルに戻ったが、そこには私の任務が書いてあるメモがあった。
「見習士官ハンス・フォン・シラーは、直ちにバルト海の海軍基地人事部に出頭すること!」
それは背信であった!

私はそこに出頭した。そこで海軍少佐の質問を受けた。私は、ありのままを答えた。
彼は静かに聞いていたが、やおら尋ねた。
「君は自分のしたことを判っているのか?」
私は彼に、自由でオープンな古い従軍原理を述べ、控えめに目で彼が述べる言葉を待った。
彼は私にこう言った。
「君は脱走を犯したのだ。」そして「それで君にチャンスを与えよう。よく考えてみることだ。」と付け加えた。

その結果、私は10日間ビュルク燈台に配置され、そこで普通なら修了に6~8週間かかる無線の講習を受けることになった。
私は、それを10日間でやり遂げた。
日数は短かったが1日24時間、それで達成出来ないときは -海軍で言われているように- 夜中まで頑張った。
こうして私は無線通信の試験に何とか合格し、再び海軍基地に無線士として出向いた。
そこで指示された私の配置は、海軍飛行船部門となっていた。

私はハンブルク近郊のヒュールスビュッテルの指揮官シュトラッサー少佐のもとに出向いた。
彼は私に特別任務を与えた。
それは、自由気球でイギリスまで飛んで爆弾を投下しようとしているシュタインという名の予備役大尉 -「ルンペンシュティルツヒェン(意地悪な小人)」という名の架空の人物に例えられる- の配下であった。私はすっかりその気で参加した。
しかし、それは気球の地上支援員のリーダーであり、肉体労働者の仕事であった。これも私の進む道ではなかった。

そこで、私はその苦境をフーゴー・エッケナー博士に打ち明けた。
エッケナーはその当時、海軍飛行船部隊指揮官の飛行船技術顧問であった。
彼は私の父の親しい知人であり、彼はよく一緒にバルト海に帆走に行っていた。
私も学生時代には、ときどき一緒にいたことがある。
嬉しいことにエッケナー博士は、それを覚えていてくれた。
私の話を聞いた後で「ま、ともかく」と彼は言った。
「君はヨット乗りで気象と航海についての専門知識をわきまえている。私は、どこかでいつか君に会いたかった。」

そしてまもなく、私は本当にヒュールスビュッテルに配備された海軍飛行船の「情報および専門教育」担当となった。
私は、そこで「L4」で初めての長距離偵察飛行に参加した。
しかし、ライプチヒに海軍飛行船乗員養成所が開設され、エッケナー博士がその責任者を引き受けたので、私はそこの第一期生になった。
かつてDELAGの飛行船長であったレンパーツ博士が我々の教官になった。
私は、17名もの飛行訓練生を「ヴィクトリア・ルイゼ」に乗せてヒュールスビュッテルからフリードリッヒスハーフェンまで連れて行くよう電報で指示を受けた。

私はそこで、新造海軍飛行船に当直士官として乗務することになった。飛行船の司令はブッター・ブランデンフェルス男爵であるホルスト・ファインヘル中尉である。
若い指揮官には若い当直士官が必要であった。

シュトラッサー少佐は、私に個人的に声をかけこう言った。
「君はそろそろ考えるべきだ。」 -シュトラッサーが気分的にくつろいでいるとき、彼はこう語った- 「君は6ヶ月間、飛行船乗りとして課題をこなし、そのほかの任務も引き継いでいる。」
それで私は自分の願望が満たされたことを知った。
飛行機乗りではなく飛行船で -と私は思った- まもなく敵に立ち向かうのである。

さし当たり、フリードリッヒスハーフェンに行った。
本来ならば、すぐにツェッペリン伯爵の傍の勤務年限の長い士官に報告しなければならなかった。
しかし、何か説明することの出来ない怖れのために、何度となく先送りしていた。
私は、いまや飛行船の当直士官という立場で乗務している。しかし、有名な飛行船の発明家の前で、私はとても小さな存在であったのである。

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