LZ127Profile

ツェッペリンに捧げた我が生涯

FerdinandVonZeppelin

Postbeförderung mit dem Luftschiff

飛行船による郵便支援


1931年の秋には、運航スケジュールに従った欧州・南米間旅客運送飛行だけでなく、大西洋横断による大陸間航空郵便支援飛行が初めて実施された。
当然のことながら、それは郵趣家たちの間にセンセーションを巻き起こし、彼らの要望で新しい記念スタンプ、船上消印、特定消印、記念切手が作られることになった。
その大部分が本当に便りを伝える手段(郵趣家は「必要郵便」と呼ぶ)であったことを見逃してはならない。もっとも航空郵便は船舶郵便に較べて便数は少ないが、その代わりに速く、ドイツと南米諸国の間を結ぶ私信と業務上の連絡を活性化することに貢献した。

状況によってはシュトットガルトやベルリンの会社は、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、アルゼンチン、チリ、ボリビアなどの大都市に宛てた郵便の返信を、8~9日後には受け取ることが出来た。それはDELAGとその後身であるDZRがルフトハンザと緊密に協同して郵便支援を行ったからである。

我々よりあとにベルリン、シュトットガルトを出発した飛行機は、郵嚢を直接バルセロナ、セヴィリア、タンジールの傍のララッシェ(現在のエルアライシュ)、後には(ハインケルの高速郵便機で)ヴェルデ岬諸島(サンチアゴ島のプライア)にまで届けた。これらの場所の上空では、飛行船は高度を80~100mまで下げて、索に吊した郵嚢を電動巻上機で引き上げた。復航では、郵便物をそれらの場所に投下し、そこから高速飛行機がそれらを先へと運搬した。

その後、レシフェに寄港した際、当然のことながらリオに向かって出発するまで郵便物が飛行船に留め置かれることはなかった。殆どの場合、我々が着陸するまえにDELAGとルフトハンザの姉妹会社である南米の航空会社「コンドル・シンジケート社」の連絡機がそこに待機していた。我々が大洋を越えて運んだ郵嚢は、出来るだけ早く飛行機に積み換えられ、急いでいる乗客と一緒にリオ・デ・ジャネイロへ運ばれた。
そこで待ち受けていた飛行機は、郵便物をアスンシオン(パラグアイ)、モンテヴィデオ(ウルグアイ)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、そしてラパス(ボリビア)、およびアリカ、サンチアゴ(チリ)にも運搬した。
およそ半日後に飛行機は郵便物を受け取ってまたリオに戻り、経路を逆にレシフェへと運ばれた。多くの場合、欧州から到着した4日後に、我々はそこで郵便物をスペイン、ドイツへの復航便に積み込んだ。

ところで、既に1930年5月/6月の最初の南米飛行となった三角飛行の時点で、ルフトハンザの延長便であるベルリン・セヴィリア便、ならびにリオからウルグアイ、アルゼンチン、チリ、ボリビアへの接続便、それにその逆方向の接続便があり、その一部はコンドルや、フランスのアエロポスタルによって運航されていた。

3大陸にまたがる郵便飛行は、1931年から1937年まで機能して大きな成果を上げ、しばしば現在より速いこともあった。1933年にルフトハンザは、フランス人がダカール(セネガル)経由で行ったと同様の、南米からバサースト(西阿先端に近い、当時の英領ガンビア[越家註:現在、ガンビアの首都バンジュルの旧称])経由の独自の郵便業務を始めた。
1934年からルフトハンザはそれを定常的な郵便業務とした。ドルニエの飛行艇にとって、3000kmの洋上コースは遠すぎ、燃料を満載して重い荷物を積んだ飛行艇は水面から発進できないので、貨物船を改造した2隻の母船をバサースト寄りとフェルナンド・デ・ノローニャ近くに錨泊させて、着水したドルニエの「ヴァル」を収容し、燃料を補給して圧搾空気によるカタパルトから射出出来るようにした。経費は掛かったが、それは有効に機能した。

母船「シュヴァーベンラント」と「ヴェストファーレン」は年次入渠のために造船所に戻らなければならなかったので、我々の飛行船がその代役を果たした。それは1935年と1936年の秋に全部で4回、乗客なしで郵便のみの「往復飛行」であった。
郵便物はレシフェで積み込まれ、大西洋上をバサーストまで飛んで、そこで投下された。
そのとき、欧州からバサーストまで飛行機で運ばれた郵嚢を、我々は順風のもとレシフェに持ち帰った。その中のある飛行で、1935年11月末にグラーフ・ツェッペリンは -思いがけなくも- ある世界記録を立てた。ブラジルで反乱が起き、発着場のある地域が戦闘状態になったので、バサーストからの復航でレシフェに着陸できなくなったのである。
どうしたか?レーマン船長は、撃ち合いの終わるまで空中に留まることを決めたのである。この問題の解決策は、後にも先にも、いかなる飛行機のパイロットにも行うことの出来ないことであった。118時間、殆どまる5日間、空中にあって微弱な動力で大部分の時間浮遊し、レシフェに平穏が戻ったときに着陸し、まもなく次の往復飛行に出発したのである。

航空郵便には、必ずと言っていいほど記念切手が貼られていた。
消印と、それより何倍も貴重な特別証明消印 -これが郵趣家にとっては重要であった- が、飛行機または飛行船の発着場で手紙に押印された。船上で乗客の書いた葉書や手紙には、船内郵便消印が押された。これらすべてを行うために、我々は船上に郵便支援部を設けていた。プルス氏の責任のもとで、方向舵手である「補助郵便局員」シェーンヘルはすべての郵便物に消印を押さねばならなかった - 膨大な仕事量であった! 毎航、およそ2万から3万通の手紙を、1934年には総計で75万通、1935年には90万通もの手紙を我々は南太平洋を越えて運んだのである。

我々が行った、南米(1931年~1937年)と北米(1936年)への郵便業務は、世界の郵便事業において重要な役割を担った。1919年の秋、LZ120ボーデンゼーのフリードリッヒスハーフェンとベルリンの間で我々が果たした「必要郵便」の支援も同様であった。
1919年11月7日から15日までは暴動とストライキにより、鉄道、郵便、道路交通は完全に麻痺しており、我々の飛行船がその週に行った6回の飛行は、南ドイツとベルリンを結ぶ唯一の郵便手段であった。このとき、我々は電報までも運んだのである。

そのほかすべての飛行 -ドイツやスイスの都市間飛行から、世界周航、そして砕氷船マリギンと郵便交換を行った北極飛行まで- これらすべての飛行で運ばれた葉書や手紙は、その殆どが郵趣家の郵便物であった。

既に1907年と1908年に、LZ3とLZ4から切手が貼られた葉書が挨拶として投下された。戦前の1910年から1914年まで、飛行船LZ6、LZ7、LZ8に乗ったDELAGの乗客は、誇らしい気持ちで沢山の手紙や葉書を書き、着陸後 国営郵便に出したり、飛行中に投げ落としたりして、それを配達人が受取人に届けるか、近くのポストに投函していた。そのために、1910年からは幾つもの出版社から挿絵入りの「飛行船絵はがき」が出版された。

1911年にLZ8ドイチュラントとLZ10シュヴァーベンで初めて船上消印が行われた。郵便物に押された消印は、その郵便物が飛行船航行を共にしたことを証明するためのものであった。切手には、投函場所か目的地の郵便局で消印が押された。

1912年7月17日に我々はヴィクトリア・ルイゼに初めて船上郵便局を開設した。そこで、船上で乗客の書いた葉書と封書の切手に船上消印を押した。
しばしば、 -本来、許可されていなかったが- 郵便物にも消印を押し、飛行船の出発の際に持たせた。この郵便物は投げ落とすのではなく、袋に詰めて着陸地点の郵便局に手渡された。

一隻の飛行船(シュヴァーベン)と一機の飛行機(ゲルベ・フント)が初めて街から街へと航空便を運んだ催しは「初のライン・マイン航空郵便」でm1912年7月10日から23日まで行われた。そこでは、記念スタンプと船上消印に加え、ドイツで初めて航空郵便切手が用いられた。それから、こうした「郵便飛行」なる催しは頻繁に行われ、「運送」された何千もの発送品は郵趣家に楽しみを与え、それは同時にDELAGの財政に寄与することになった。エッケナー博士は、大きく膨らんだ郵嚢を眼前にして「神よ、郵趣家に祝福を与え給え」と声を上げたと言われている。

郵便物の数とそれに伴うDELAGの収益増は、飛行船の限りある載荷重量中で文書の単位重量を低減させることで可能になると考えられた。

このアイデアを追求し、実現させたのはエッケナー博士であった。ハンス・フォン・シラー船長は、その著書「ツェッペリン - 世界航空輸送の開拓者」のなかで偶然に助けられて、より軽量の便箋を生み出すに至った経緯を次のように述べている。
「ZRⅢの引き渡し後、エッケナー博士は北ドイツロイドの汽船コルンブスで1924年11月に帰航に出港した。その船ではベルリンの紙製品製造業者のマックス・クラウゼ(『私にも書いて、彼女にも書いて、MK便箋で書いて』)が、エッケナーとよく食事をしていた。
私はエッケナーが突然『クラウゼさん、2枚の印刷用黒インクと郵便切手を含めて2枚の便箋と封筒で重さ5グラムになる軽い紙を作ることが出来ますか?』と不意に訊ねた あの昼食のことを今でもありありと思い出す。機転の利く頭脳の持ち主である、このまるまるした男は勢いよく跳び上がり『私がそれを作りましょう、博士、私がやります』と叫んだ。このとき航空郵便用便箋が誕生した。ベルリンの郵政省はそれに関して異議を申し立てなかったからである。」

軽量郵便用便箋、エアログラム、航空郵便用便箋は今日では当たり前であるが、 - 当時、その導入はちょっとしたセンセーションとなった。

リヒテンシュタイン領主は、かねてから切手蒐集に非常に凝っており、以前から素晴らしい記念切手を発行していた。当然、彼は飛行船による郵便物の受け取りや発送に価値を見出した。そう言うわけで、我々は1931年6月10日にライン渓谷のリヒテンシュタインで、王宮の前の大きな牧草地にドイツと外国からの郵便物をパラシュートで投下し、手紙と葉書を4袋、リヒテンシュタインの記念切手と記念スタンプを紐で飛行船に吊り上げた。
我々はスイスを横切って計画通りにリヒテンシュタインの郵便物をすべてローザンヌに投下した。この活動は世界中の郵趣家にとって特別なものであり、それは今日でもなお大変希少価値のあるものとされている。それは同時に我々にとって多額の収入をもたらした。郵便料金の5分の4が我々に与えられたのである。それは16000スイスフランを上回るものであった。我々はこれと同様の飛行を1932年6月28日に再現することになったが、それは決して驚くにはあたらない。

ドイツ国営郵便は第一次世界大戦後、飛行機によるドイツ国内の航空郵便促進を始めた。
私は、私のシュターケン時代である20年代初めに行われたハンブルク・ベルリン間夜間郵便飛行の最初の試行のことを、今でもはっきりと覚えている。大抵ハンブルクを3時頃離陸した飛行機が我々の格納庫のあるシュターケンの飛行場に到着するころ、ちょうど夜が明け始めた。しかしハーフェル河岸にある飛行場はたびたび濃い霧が立つことがあった。
地上要員は標識灯火を維持し、我々は格納庫の屋根でサーチライト「ゾネンブレンナー」を点灯させて万全を期した。飛行船格納庫の上部が霧の中から現れたので、パイロットはその位置を確認することが出来た。それから格納庫に沿って飛行し、着陸地点上空に自分たちが居ることを確認した。それから、大抵は霧の海を10メートル降下した。
しかし - パイロットが高度を読み違えたのか、ガスの除去が早すぎたのか、あるいはそれ以外の要因で - しばしば郵便機が逆さまになったり、宙返りしたりして飛行機を再度引き起こさなければならなくなったことがあった。このように航空郵便促進の導入には困難が伴った。その後シュターケンがどうなったかについては、私は伝えることが出来ない。私は1927年にそこを去ったからである。

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