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コラム:世界周航時の乗船者名

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いま、原稿を書いている。

エッケナー博士やシュッテ教授の活躍した頃の硬式飛行船に関する出版物は、国内でも木村秀政博士が監修しブイヤント航空懇談会が制作した「とべ!飛行船」を始め、関根氏の「飛行船の時代」、柘植氏の「ツェッペリン飛行船」など1970年代から90年代にかけて何冊か刊行されている。

しかし、その記載内容は信頼性に乏しいものが多い。
例えば、後にアフリカ船と呼ばれるドイツ海軍のL59(建造番号:LZ104)が当時ドイツの植民地であった独領東アフリカへ現地部隊の補給に向かい、フォアベックの指揮する地上軍が降伏したため6000km以上の距離を95時間飛行して出発したブルガリアの基地に引き返したことがあった。
ある本にこの話が載っているが、エッケナー博士が指揮したとか、現地に着陸して医療品、弾薬、兵器、野戦用無線機などを引き渡したとか、まことしやかに書かれていた。
また、「グラーフ・ツェッペリン」が世界周航を行ったとき、母港のフリードリッヒスハーフェンから、大口スポンサーのランドルフ・ハーストの要求で一度レークハーストに飛び、そこを基点として「アメリカの」世界周航を始めたときの記述に、別の本ではフリードリッヒスハーフェンを出発した日を2日も違えて書いてある。
ほかの本では、個人名や船名を違う表記で載せている。
普通、本の中で、人物や船名が違う名で表記されていると、知らない人は別人、別船だと思うに違いない。

そんなことがあるので、もう一度調べて世界周航の航行記だけでなく、船体構造、居住設備、船内のメニューやワインリストなどの当時の飛行船を紹介し、エッケナー博士、デューア博士、カール・マイバッハ、アルフレッド・コルスマン、エルンスト・レーマン、ドラモンド・ヘイ女史など関連した人達のことも書こうとしているのである。

なにしろ、世界一周であるから乗客も寄港地毎に乗降するし、乗務員も入れ替わる。
霞ヶ浦で機関長がウィルヘルム・ジーゲルからカール・ボイエルレに交替し、エッケナー博士がレークハーストで下船したあとは、第一船長のエルンスト・レーマンが本船の指揮をとっている。
ロサンゼルスでは浮揚ガスが満足に充填できなかったので乗務員を何人かレークハーストまで陸行させている。
乗船客数はフリードリッヒスハーフェンから霞ヶ浦まで20名、霞ヶ浦からロサンゼルスまで20名、ロサンゼルスからレークハーストまでは17名、レークハーストからフリードリッヒスハーフェンまで23名と発表さているが、最も長いフリードリッヒスハーフェンから霞ヶ浦までの20名だけでも誰が乗ったのか確認して置きたかった。

しかし,既刊の資料には別の飛行に乗った人も含まれているのか、数え上げれば20人を超えるので頭を抱えていたのである。

ツェッペリン飛行船の研究家として有名なロルフ・イタリアンダー著「フーゴー・エッケナー、現代のコロンブス」(1979年:シュタッドラー刊)にフリードリッヒスハーフェン・東京間の乗船者名簿の写真が載っていた。

筆頭が大阪朝日新聞社の北野吉内氏、次が大阪毎日新聞社の圓地与四松博士、3人目のハインツ・フォン・ペルクハマー氏はドイツのウルシュタイン、シェルル両社から派遣されたカメラマンである。

なお、蛇足ながら圓地記者と北野記者は1号室で相部屋であったが、この乗客名簿はキャビン番号順ではなく、両氏が筆頭になっているのは偶然であろう。
「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」にはツインキャビンが10室しかない。当然、ローゼンダール司令とリチャードソン少佐は同室であろうし、グレース・ドラモンド・ヘイ女史はシングルユースの筈である。そうするとこのうち誰か一人は乗務員居住区で寝ていたのであろうか?
レークハースト・フリードリッヒスハーフェン間は23人乗せたと言うからそうでもしなくては入りきれないことになる。

4人目は日本海軍で飛行船を担当していた藤吉直四郎少佐で、5人目はドイツ・シェルル社のジャーナリストのハインツ・フォン・エシュヴェーゲ=リヒベルク氏、6人目はフランスのル・マタンの特派員ジュルヴィユ・リーシュ氏である。

7人目はフランクフルト新聞のマックス・ガイゼンハイナー氏、8人目はベルリン・ウルシュタイン社のグスタフ・カウダ博士、9人目は大富豪の相続人ウィリアム・B・リーズ氏と続く。

10人目はスペインのヨアヒム・リカルド大佐、11人目はハンブルク気象台のザイルコフ博士、12人目はスイスの退役陸軍大佐クリストフ・イセリン氏である。

13人目は米ハースト新聞のグレース・ドラモンド・ヘイ女史で、14人目は米海軍の飛行船乗りチャールズ・ローゼンダール司令、15人目がドラモンド・ヘイ女史の同僚カール・フォン・ヴィーガント氏である。

16人目はソビエト・ロシア政府代表のカルクリン氏であるが、地理学者とも気象学者とも飛行機の技術者とも言われよく判らない人物である。ただ気象条件を理由にモスクワ上空を飛ばなかったことを根に持って霞ヶ浦で下船するまで不機嫌だったことは知られている。

17人目はスペイン国王の主治医ヘロニモ・メヒアス博士で、18人目は米海軍のジャック・リチャードソン少佐である。

19人目は有名なイギリスの極地探検家のヒューバート・ウィルキンス氏である。氏は後に「グラーフ・ツェッペリン」が北極探検飛行を計画しているとき、自分は潜行艇に乗って北極で浮上するから、そこで合流しようと言って驚かせたが、幸いこれは実現しなかった。最後はハースト新聞社の写真家ロバート・ハートマン氏である。

それにしても世界一周飛行で持込手荷物の重量制限が20kgと言うのは相当に厳しい。
2人のカメラマンはどんなカメラを持って、フィルムはどのくらい持っていったのか非常に興味がある。

調べることは時間も掛かるし、面倒ではあるが作業をしていると今回のようなことがあるので止められないのである。

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