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陸を越え、海を越え

HugoEckener1

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"


フーゴー・エッケナーとは誰だったのか?

序に代えて        ロルフ・イタリアンダー

フーゴー・エッケナーとは誰だったのであろうか?

彼は勇敢かつ独立独歩の人間であり、そういう人物というのは幸いにもあらゆる国の歴史にも居るものである。彼は20世紀の前半に、世界の交通運輸に新しい次元を開いた傑出した人物のひとりである。彼は海洋を横断する航空輸送を開設したのである。

フランクフルター・ツァイトゥンクの若い通信員として、硬式飛行船を発明したフェルディナンド・ツェッペリン伯爵の批評を行った。討論をしたあと伯爵は自分の協力者として彼を招いた。だが、フレンスブルク出身のこの若者はそれ以上の存在になった。全世界で最も著名な飛行船航行の立役者となったのである。

エッケナーは様々な才能を発揮した。熱心なヨットマンであった彼は高い能力を持った気象学者となった。彼は「天候を嗅ぎ知った」。彼が飛行船を未知の地域で航行させたことは、彼の冒険的な調査飛行に大いに役立った。

実際にはエッケナーは探検飛行家で、しかも新たな分野での探検旅行家であった。彼は大気圏を探検の舞台とした。彼は世界中に航空機を導入しただけでなく、飛行船「グラーフ・ツェッペリン」を自身で操縦して北極に飛行し、そのことにより極地探検に決定的な貢献をもたらした。

陸上の探検家はたいてい単独で移動していた。彼らは自分自身の責任だけを負い、やむを得ない場合に限り、僅かな同行者(および土地の、その地方に詳しいポーター)に対してのみ責任を負っていた。

それに対し、エッケナーはその乗組員と乗客のほかに、非常に被害の危険性が高く、しかも数百万マルクもする飛行船に対しても責任を負っていた。つまり、彼の飛行は単独飛行ではなく大掛かりな企画であった。その企画にあたり、彼は多くの人間の命のみならずドイツ・ツェッペリン運送会社の資産、さらにはドイツ国家の威信をも危険にさらした。というのは、エッケナーの開拓の実績には世界中が関心を寄せていたからである。

航空および世界運輸の発展に高い関心を示していた人々の思考の根底には、30年近くツェッペリン飛行船の航行が重要な位置を占めていた。

エッケナーはバイキングの血を引く男であった。彼自身、その回想録の中で自分の「旅と冒険に向かうバイキングのような熱血」に言及している。

しかしながら彼は冒険のための冒険者ではなく、常識を越えたことを求める性向をより高い目的に結びつけ、昇華させた。その目的とは、それ以前の数世紀がそうであったように、もはや陸路や海路だけでなく、空路で陸地をつなぐというものであった。

シュレスヴィッヒ・ホルスタイン生まれ(1868年8月10日、フレンスブルクで誕生)のこの男は、多分野学問的教養を身につけた男であり、万能人であり、ルネッサンス人のように多方面に心を奪われていった百科事典のような男であった。彼の普遍主義は人道主義と不可分であった。彼はゲーテのような特徴を持った人間と見なされていた。その同世代の人々のためによりよい交通運輸の可能性を創造するという極めて崇高な志とともに、発展に寄与したいと思っていたのである。

並はずれて高い彼の教養は、彼を博愛主義者へと促した。確かに彼はドイツの愛国者ではあったが、それに加えて国際人、コスモポリタンであった。他のドイツ人よりも早く、すでに20世紀の第一四半期の段階で彼は認識していた。すなわち、民族間の相互理解と平和のために、知識階級は特に力を入れて取り組まなければならないということを。飛行船はエッケナーにとって、彼が再三強調していたように「平和と平和のための手段」だったのである。

こうして目的に向かってひたむきに努力する、自意識のあるこの飛行船指令は、特にそのつもりがあったわけではないが政治家となり「親善大使」となり、所管事項のない政府要人となり、全世界から評価され賞賛された。

彼は -またもやだれよりも早く- とりわけ西洋社会内部におけるアメリカの主導的役割を認識していた。カルビン・クーリッジ、ハーバート・フーバー、フランクリン D.ルーズベルトの3代の大統領から、エッケナーは数回にわたって会談に迎えられている。

彼らに感銘を与えたのは、フーバー大統領の言った「現代のコロンブス」という言葉であった。これら3人の合衆国大統領は、可能なときはいつでもこのドイツの航空開拓者を支援しようとした。他に誰がそんなことを申し出ることが出来るだろう?

ねたむ人々は、エッケナーのことを「オデッセウスのように策略に長けた」人物だと思った。確かに彼には時々そういうところもあった。いつも油断なく警戒し、敏捷で、馬鹿な人間として自分を売り込むことなど絶対になかった。高尚な計画を持っている者は他にもいる。だが、それをどうすれば実現させることができるかをそのほとんどの者は知らないのだ。

実用主義者であるエッケナーは「可能なこと」に、 -そしてそれ以上の- 「形」を与えた。経営者や工場主達と -つまり「巨額の資本」と- 卓越した関係を築く術を、この思慮深い北ドイツ生まれの男は理解していた。飛行船が数百万マルクもするだけでなく、全世界を対象とする計画には数百万の投資が必要であった。人はエッケナーの能力を信じ、彼に資金を与えた。何度も何度も・・・。

それに加えて、かつてジャーナリストをしていた彼は、極めて巧妙にメディアを扱う方法をわきまえていた。大新聞コンツェルンに、自身のライフワークへの関心を持たせる技を心得ていた。独占的報道には高い費用を支払わなければならなかった。煙草メーカーは、タバコのパッケージに添えられたツェッペリンの挿絵を貼るための、人気のあったアルバムを沢山の発行部数売り出した。

全ての画期的大飛行には、何れも特別な郵便切手が発行され、高額な運航経費を大いにカバーした。エッケナーは工業的広告のために自分の肖像が使われることをためらわなかった。これらのことすべては、当時は革新的なことであった。そうすることでエッケナーは広告宣伝をも近代化したのである。それによって彼の体面が傷つくことは決してなかった。何事も開拓者としての偉業のために貢献しているのだと誰もが知っていた。

真に天才的な業績の一つは、後にアメリカで「ロサンゼルス」と命名された飛行船LZ126の建造であった。

ヴェルサイユ条約に基づいて、ドイツ国民は真っ先に飛行船を作ることも飛ばすことも禁じられた。しかし、1914年から1918年の戦争に敗れた後も、エッケナーは飛行船の航行を発展させたいという思いにとりつかれていた。

彼はアメリカ人に賠償金ではなく、フリードリッヒスハーフェンのドイツ・ツェッペリン運航会社が建造した飛行船を1隻提供するという意志を貫いた。

私にとっては、第一次大戦でアメリカの最も抜きんでた戦闘機乗りで、後にアメリカの大航空会社の社長になる「エディ」リッケンバッカーも言っているように、彼もエッケナーを並はずれた、まさに万能な天才的人物と見なしていた。

リッケンバッカーは次のように述べている。

「一体、何がドイツに起きたのか?ヴェルサイユ条約での取り決めがあったにもかかわらず、エッケナーは飛行船の建造を許され、その結果、ツェッペリン飛行船製造の従業員に仕事を与えることを許された。
同時に、彼は新しい経験を重ねることができ、飛行船の性能をこれまで知られていなかった新たなレベルにまで引き上げた。
彼が賠償飛行船を合衆国まで空輸した際、航空事業そのものに対する画期的な業績をなし遂げた。
エッケナー以前には、旅客や郵便物を載せてヨーロッパとアメリカのあいだで定期運航される飛行船は1隻もなかった。
彼はアメリカで国民的英雄として賞賛された。
それはまさに未曾有の出来事であった。
敗戦の後、負けた側の国民は賠償を支払わなければならない。
支払う人物は、-それがどんな形であるにせよ- 両方の国民にとっての英雄となり、誉れ高い軍司令官さながらに勝利を享受するものなのだ。」

ワイマール共和国では、エッケナーは最も人気のあるドイツ人という存在になっていた。最初はヒンデンブルクが再立候補するつもりであったがドイツ大統領のポストに、ヒットラーの対立候補としてエッケナーがノミネートされることになっていた。

ミラノの新聞、コリエレ・デラ・セラが1932年に実施したアンケートによれば、最も著名な同時代の人物に「総統ムッソリーニ」ではなく、エッケナーが選ばれたと発表した。

LZ126(「ロサンゼルス」)の後、彼は更に2隻の飛行船「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」の建造に成功した。この2隻の飛行船の凱旋飛行についても、彼はその回想録に記載している。

エッケナーにとって不幸だったのは、レークハーストにおける「ヒンデンブルク」の爆発で、その原因は今なお論議されている。

政治的な破壊活動であったのだろうか?エッケナーはそれを否定し、技術的欠陥であると述べた。その大惨事以来、飛行船による飛行への反論は、かつてなかったほど多くなった。

どのみち、第三帝国の独裁者たちは、世界中で尊敬される人物など好みはしなかった。その男がナチズムを拒絶するであろうことを、彼らは充分すぎるほど判っていたのだ。

宣伝相は、エッケナーの名前を報道で用いることを一時的に禁止した。書籍の中でも、彼についてはほとんど記述されず、まして彼の肖像など出版されることはなかった。

こうして、すでに第三帝国時代に、彼の出版物は公の場から消えていった。

その後、ドイツの戦後史の不名誉な章である非ナチ化の時が来た。

今日に至るまで「過去を清算することはできない」として、ドイツ人を批判する人もいる。

だが、戦勝国もまた、その12年にわたる恐怖政治時代の出来事をどう扱えばいいのか判らなかった。

この独裁政権の消滅後 -それには、世界中の勢力の動因が必要なのだが- 30年ほど経った今、あの時代に何が起きて、そして何が失われたのかが、やっと明らかになりつつある。

その間に、世界はさらに何かを学んだのであろうか?多くの人々はこの問いを否定する。

だからこそ、我々が現代史の目撃記録を心に留めておくことが必要不可欠なのだ。フーゴー・エッケナーの功績は偉大で、その体験や回想は彼の偉業の記録であると同時に、ドイツが世界航空の歴史を証明するものでもある。

バイキング、探検飛行家、飛行船指令、飛行船運航会社という大企業の運営者、国際協調の立役者-これら全てを1人の人物に体現した人間が今まで何処に居ただろう?

フーゴー・エッケナー以外にそのような人物は居なかったのである!

戦前の1925年に、13年の経歴を持つ若いパイロットであったエッケナー博士に私は初めて会ったのだが、そのとき彼の人生について短い文章でも良いから書かせて欲しいと彼に頼んだ。彼はその申し出を受け入れてくれ、1940年2月2日に、私に次のように書き寄こして来た。

「あなたは頑固な方ですね!しかし、それで印象が損なわれることはありませんでした。だから、私はあなたに手を差し伸べずには居られなかったのです。しかし、あなたが希望された私の経歴についての「正真正銘の資料」をツェッペリン飛行船製造社の部署を介して送付させることはできません。というのも、ツェッペリン飛行船製造には、そのような資料は殆どないのです。私はツェッペリンのことや飛行船のことについて様々なことを書いてきましたが、折に触れて提出を求められて作成した情報や訂正を除いて、私自身のことについて書いたことは一度もありません。それらの資料のコピーをここに添付いたします。そして、私は幾つかのことについて口述して筆記させ、近日中にあなたに送りましょう。」

後に、彼は人生の回想を書き始めたと私に知らせてきた。そのために、私は彼に何度もエールを送った。

「ツェッペリンで陸を越え、海を越え」の本は、1949年に初めてエッケナーの生まれた街フレンスブルクのクリスチャン・ヴォルフ出版社から出版された。その本は読者や出版界に好意的に受け入れられた。

自身で体験した飛行と航空の試行段階についての回想に従事する傍ら、私はエッケナーの娘であるロッテ・シモン・エッケナーと連絡を取った。そろそろ尊父の著書を新たに出版すべきだという私の提案に彼女はすぐに賛同した。

この文庫版のためには、作品をいくらか短縮することを余儀なくされた。それが慎重に行われたことは断るまでもない。したがって、出版社には、瑣末な短縮についてそのつど強調する必要もないように思われた。エッケナーは歴史的記述と歴史哲学に重点を置いた。そのため、著書のなかではいくらか回りくどい言い回しになっているところも見受けられる。

その上、彼は歳をとっていた。結局、彼の著作は81歳のときに初めて刊行された。高齢に達した人間は雄弁になるものである。それは、その人間が後生の人達に自らの体験を多く伝えることに大きな喜びを抱くからであり、それは至極もっともなことである。(エッケナーは1954年8月14日に86歳で亡くなっている)

エッケナーにとって、教授するということは喜びでもあった。もし、彼がツェッペリン伯爵に遇っておらず、彼の協力者として招聘されていなかったら、彼はきっと大学の教育者として、情熱を燃やして教授資格を取得していたことであろう。

若い読者がエッケナーの時代により親しみを持てるようにと、この版には簡単な脚注がいくつか挿入されている。この脚注が多くの人びとに好意的に受け入れられることは確かであろう。

この著書の新版に伴い、私が編集した挿絵付きの伝記「フーゴー・エッケナー 現代のコロンブス」がコンスタンツのフリードリヒ・シュタッドラー出版社から刊行される - ツェッペリン・ファンに限らず、この文庫本の補足として歓迎されるであろう。

この本の付録にエッケナーの活動を補足する幾つかのテキストが載っていることに読者はお気づきになるだろう。ことにそのうちの3箇所は、それほど遠くない将来に、後生の人間たちが飛行船による飛行を体験できるという望みを抱かせるものである。さらに、飛行船のパイオニアのこの回想録がいまだに重要性を失っていないテーマを扱っているということも証明している。

ツェッペリン伯爵についての書籍のまえがきで、フーゴー・エッケナーは次のように書いている。「絶え間なく続くもの、永遠に貴重であり続けるもの、それはその人物のもつ力と誠実さである。それこそが、つまるところ決定的なものなのである。」これはツェッペリンだけでなく、エッケナー自身にも当てはまる言葉である。

ロルフ・イタリアンダー

まえがき(1)

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