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陸を越え、海を越え

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Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

南米航路(12)

その冒険が幸いにも終わったあとで、ヌーシャテル、ベルン、ルツェルン、そしてバーゼルの代わりにチューリヒの経路を飛んでいるときに、乗客の様子を窺い元気づけるために回った。

しかし私自身、時間にして2~3分のことであったが生と死の境で耐え難い緊張に打ちひしがれていたので、フリードリッヒスハーフェンに着陸して3時間後にブランデンシュタイン・ツェッペリン伯爵夫人がお祝いを述べてくれたときに、私は静かに しかしながら真剣に「はい。帰ってきました。間一髪のところで全てが終わるところでしたが、幸運にも持ちこたえることが出来ました。」と答えた。

事実、ツェッペリンの経歴で私の経験した全ての限界状態や危険な状況で - 多くの場合、そうであったが - その何れも、62人乗船している、このソーヌ渓谷の雹の叩きつける暴風ほど神経的に参ったことはない。

レシフェとリオへの実験を兼ねた冒険飛行は、赤道地帯の雷を伴う暴風や驟雨はツェッペリンにとって何とか対抗できるという確信が持てたし、事実 友人のレメンタリアはとても快適であると考えていた。

このような凄まじい環境では、ハッテラス岬やローヌ渓谷のように慣れ親しむことは出来なかった。

従って、南米飛行を系統的に立ち上げる準備を始めていた。

そのためにはレシフェと、スペイン人の便宜のために中間基地セヴィリアにも発着場を開発せねばならなかったし、しっかりした代行機関を組織し、ブラジルの官辺に働きかけるためにもブラジルでの宣伝活動が必要であり、特に郵便物や貨物の取り扱いで支援してくれる郵便局と税関には財政的にもそれなりの協力が必要であった。

これら全ての業務には時間を要し、飛行のたびに大層忙しく、当初はもうブラジルには行きたくないと思うほどであった。

しかし、翌1931年の8月に北極飛行から帰ったあと、もう南米に行かなくても良くなったと思った。

そこには8月、9月、10月の各月に一度飛行し、それが終わったら中継点レシフェが安全な定期運航を保証してくれることになっていた。

飛行船に対する、一般の信頼と熱狂ぶりは増大しはじめ、1932年には9回の飛行を行ったが必ず売り切れ、郵便物と貨物は順調に増加していった。

春には、そのうちの4回の飛行を行い、そのあとヨーロッパでの別の飛行のためしばらく運休し、秋に14日間隔で5回の飛行を行った。

最後の3回の飛行は、ブラジル政府の首都への関心を高めるためにリオまで飛行した。そのためにはリオに格納庫が必要であった。

1933年には、南米にまたも9回の飛行を計画し、第1回の飛行の後、リオデジャネイロ市政府に飛行船格納庫の建設を説得するためにリオに滞留した。

商務大臣と打ち合わせの約束を取り付け、州政府に対して私の選択した地域に飛行船格納庫を建設する費用として総額1万コント(換算レートでおよそ75万ドル)を提案した。

契約は非常に気前の良いものであった。それによると、我々の仕様で格納庫と特殊設備を建設することを認めていたが、1つだけ条件がついていた。それは毎年、リオに少なくとも20回の飛行を行い、使用のたびに1200ドルを入庫料として支払うことで、それによって30年で格納庫の償却を行うためであった。

格納庫の建設は、翌年 ドイツのフィリップ・ホルツマン社によって、リオの南 約40マイルのサンタクルズの近くの政府の広大な土地で開始されたが、そこには大きな周辺設備のための充分な広さはなかった。

1935年の年末にそれは完成した。

南米航路(13)

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