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陸を越え、海を越え

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Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

南米航路(4)

我々が10時に横切ったマラガと、その有名な葡萄畑では暖かい太陽のもとで葡萄が実っていた。殆どの人が埠頭の上を走り、大袈裟な身振りで見送ってくれた。

目の前にはジブラルタルの急峻な岩壁が地中海への入り口の歩哨のように海面から立ち上がっていた。我々はとうとう目的地に来た。

午後5時に着陸することになっていたので、アフリカ沿岸まで回遊し、テツアンとタンジールでモハメット世界の非常に異なる眺めを見下ろした。

ネルソンが、その名を不滅のものにしたトラファルガー岬をちょっと眺めて、新しくライバルとなるであろう南アメリカラインに会うであろうカジス港を複雑な気持ちで見下ろしながら横切り、グァダルキルビルの河口を渡ってウェルバに向かった。

アメリカを発見した人物が、およそ4世紀半前に船出したパロスの港も見てみたいと思った。港の入り口に立つコロンブスの像がこちらを見ていたが、信じられないことであった。彼は我々が費やす時間数よりも多い日数を要していた。技術の新世界が到来したのである。

午後5時頃、セヴィリアの発着場を埋める群衆のなかに着陸した。私は乗客に「これで南米飛行の4分の1です。楽しんでいますか?」と聞いた。彼らは楽しんでいた。

街の何処でも乗組員が現れるところでは大概、丁寧で暖かいもてなしを受け、歓迎され、「ドイツ万歳」という挨拶に応えなければならなかった。不運にも、いや幸運だったかも知れないが、この平静でいることの出来ない大歓迎は、我々が翌日出発しなければならなかったので燃料の補給をするために飛行船に戻らなくてはならなかったので、それほど長くは続かなかった。

セヴィリアの海抜はフリードリッヒスハーフェンよりおよそ1300フィート低かったので、それまで消費した燃料に加えて更に約140万立方フィート余計に搭載することが出来た。

翌日、全てのエンジンを110時間以上運転できるだけの燃料を搭載して出発した。

グァダルキルビル川の広い谷を下り、アンダルシアの緑の草原に出た。数千頭の牛が草を食み、有名な気の荒い雄牛が闘牛の国を誇るように立っていた。

その前日、リオ・ティント河口のコロンブスの像の上を飛んでいるとき 我々が体験している感覚が、428年前に船隊とともに海に向かって出港していった男と同じであったかどうか疑わしいと思った。

我々はいま、青い海原の上におり、飛行船は驟雨前線を伴わない海上ではいつもそうであるように、穏やかに静かに飛んでいた。見渡す限り、晴れた空が洋上に広がり、紺碧の海面には白い波頭が見えていた。これが此処での典型的な気象であり、グラーフ・ツェッペリンが北米に向かうこのコースをとって以来、この2年間見てきたものであった。

ただ、そのときは風がやや強くなり、さらに南寄りになったので、カサブランカに向けて南に舵をとるのではなく、対地速度を上げるためにマデイラに向けて南西に向かった。9時間飛行を続け、時速70マイルの速度に満足していた。

そのとき、南風は西南西に向きを変えたので、カナリー諸島のテネリフェ島に針路をとった。テネリフェのサンタクルズの灯りが見える前に真夜中になっていた。

ここで大いに期待しながら、ほぼ1600マイルにわたって安定した好天で北緯20度線まですごい速度で送ってくれる北東の貿易風を待った。しかし、最初は貿易風が来なかった。もっと南に吹いていたのである。

翌朝7時、乗客は静かな夜間飛行のあと朝食の席についていたが、毎時11~13マイル程度の弱い貿易風に助勢されていることが判った。それはとても弱かった。別の日には毎時45マイルも吹いていたのである。

しかし、飛行船は60~70ノットで前進していた。

午後3時にヴェルデ岬諸島に到達し、午後5時にサンチアゴ島のプライア港に郵嚢を1つ投下した。ここはドルニエDoX飛行艇が、荒天のため揚力不足で南米への飛行が出来ずに、最近まで数ヶ月錨泊していたところである。

我々は、計算上、全エンジンを75時間運転するに充分な燃料を搭載していたので余裕を持って飛んでいた。

南米航路(5)

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