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陸を越え、海を越え

Finsteraarnhorn

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

エジプトへのセンチメンタル・ジャーニー(3)

コリントの地峡を横切るとき、運河を低い高度から見下ろしたときは壮観であった。現在は小さな船舶なら通過できるほどに整備されているが、高度150mから見ると客船が手漕ぎボートのように見えた。コリント湾の北岸に沿って高度300mで飛行し、幻想と伝説の国を遠望することが出来た。

イタカ島、この飛行船から一目で見渡せる小さな島はコバルトブルーの海に奇跡のように銀色がかった白亜に輝いていた。この詩的な島をちょっと眺めてからアドリア海沿岸に沿って飛んだ。

美しいコルフ島と、そのほかの絵のような島々を眺め、ドブロブニクやシベニクなどの古風な小さな町を見下ろした。この沿岸で出会ったそのほかの場所も、それぞれに歴史を感じさせてくれた。このアドリア飛行の最北点 スパラトに着いたとき、日は既に暮れていた。真面目な政府役人で構成された調査団に体験して貰った明るく太陽の輝く3日間の歴史探訪飛行は実質的に終了した。あとは飛行能力とツェッペリンの耐航性の評価試験が残っていた。

天気予報によれば、アルプス北側の天候はまだ荒れていて、この厳しい冬の名残は終わりが見えなかった。言わばアルプスの巨大な蹄に囚われたようなもので、もしフリードリッヒスハーフェンに無事に帰投すればそれに打ち勝ったことになる。

取り得る途は3つあった。アンディージェ渓谷からブレンナー峠を抜けるコース、ロンバルディアを横切ってリビエラに行き、そこからローヌ河口に出て往路を戻るコース、第3はディナリックアルプスからプレスバーグ、ウィーンに出るコースである。

第一のコースは不可能であった。アルプス山岳地帯で航路を見つけるために、白昼の陽光と完全に澄み切った天候が前提であったからである。

第二のコースは非常に長い航程であり、好ましくなかった。残ったのは第三のコースである。

しかし、これも危険とは言わないまでも嫌なところに入り込んだら明るい天候が必要になるので好ましいとは言えなかった。事実、高地を越えるために1400mまで昇らなければならなかったし、高さがほぼ2000mの2つの山の間の狭い箇所を抜けなければならなかった。もし、この経路が雲で隠れていたら安全のために2000mを昇るしかほかに途はなかった。

しかし、非常に好ましくないことに、上昇するときに大量のガスを放出し、その結果飛行船は11トンも重くなる。もしそのあと、重い飛行船で雨か雪の中を飛ばねばならなくなったときは、飛行船を空中に浮かせておくために僅かしか積んでいないバラスト水を投棄するほかなく、おそらく幾つかのタンクの燃料も捨てざるを得ないであろう。

非常な興奮と緊張で山越え飛行に赴いた。当初は望み通り順調な滑り出しであった。まだ月は出ていなかったが、晴れていて視界は良好であった。

最も高い尾根に来ると、目の前に2つの山の側面がぼんやり大きく見えていた。10分か15分後、その山は右と左にあり、非常に静かで山岳の迷路を通り抜けられると思った。

しかし突然、雲が山の脇に集まってくるのが判った。ほんの僅かな間であった。瞬く間にすべてが山の中に隠れてしまった。

あとで気がついたのであるが、強い東風が風上側から山岳群に吹き付け、横には通常の雲を形作り、風下側はまだ穏やかな南風が勝っていた。

この最後の2~3分間の緊張は本当に耐え難いものであり、1分ごとに2000m級の山に登る心地であった。

しかし、幸運に助けられた。まだ、充分に左右の山壁を見極められる視界が残っていた。心にわだかまっていた大きな荷が後方になだれ落ちるように軽くなり、そこを通過することが出来た。

乗客は、峡谷のような暗い壁の間を通り抜けるあいだ、心配そうに注視していた。明らかに彼らは私より緊張していた。その地点は地形などの条件と現実がよく知られており、慎重な人ならこのような危険にどうしなければならないか判っていた筈である。

このとき乗船していた商務相は、あとで操縦室に来て「穴から抜け出したことを神に感謝しなければ」と言っていた。

私はこの上を乗り越えずに済んだことを喜んでいた。

エジプトへのセンチメンタル・ジャーニー(4)

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