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陸を越え、海を越え

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Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

エジプトへのセンチメンタル・ジャーニー(1)

すべての期待を越えて大きな成功をおさめたグラーフ・ツェッペリンの偉業は、多くのトラブルや困難を乗り越えて充分な確信をもたらし、人々はツェッペリン社に惜しみない声援を送った。

しかし、その偉業の結果が何かを生み出すわけではなかった。必要なものは、性能を改善したもっと良い飛行船をつくる資金を立ち上げることであり、また世界が飛来を望んでいるグラーフ・ツェッペリンの飛行を継続するための基金も必要であった。

賛辞はとても素晴らしかったが腹の足しにはならず、人々の熱狂的な関心は上がり我々の努力と真剣で厳しい仕事ぶりは賞賛されたが、それらは飛行船に充填される浮揚ガスに取って代わることは出来なかった。

1928年から29年にかけての冬は、まだ大新聞社や郵趣家の興味が乗客の乗船料を補填するほど理解されているとは言えなかった。何とかして運航資金を獲得する必要があった。何処で見つければ良いのだろう?

話としては、商用ツェッペリン輸送事業を目論む投資家を考えることも出来る。しかし、当時の投資家はその熱意と確信に欠けるように見えた。

国民の中にはツェッペリンに熱狂的で義捐金を寄付する熱心な人達もいた。しかし、再びドイツ国民にどうして頼めるだろうか?

残るのは政府であったが、当時の政府に助成金を出すことは難しかった。この分野で最も重要な機関は大変親身に見える態度であったが、彼らの考えでは他に重要な任務があるということで、なお非常に曖昧な態度であった。

最終的に多くの政府要人を招待して、幾分長い飛行で彼ら自身の経験から、理屈でしか知らなかったツェッペリンの安全で快適な航海を修得する機会を持って貰おうという考えに思い至った。

その飛行は、当然のことながら特別に興味を惹くものでなければならず、次の3つの理由からエジプトに着陸する東地中海クルーズに行く計画を決めた。

第一に、その航海は乗客も興味を持つ、多くの航海上の課題を解決する機会であり
第二に、眺めが良く、古代から今日まで歴史の舞台が多く存在する地域であり
第三に、訪問する各都市の人々にとっても、世界から注目されているツェッペリン飛行船上からそれを眺めるドイツの政治家にとっても有効な広報飛行になると思ったからである。

おそらくツェッペリン・エアラインを実現させるべきか否かにかかわるであろう非常に影響力のある賓客を、上に述べたような素晴らしい旅に招待する準備に取りかかった。

1928、29年のドイツの冬は厳しく、1月初旬に気温零下18℃で浮揚したことがあった。

リビエラの早春と、東地中海の春の盛りに行けるように出発を2月24日に決めた。しかし、2月20日にフリードリッヒスハーフェンでは零下24℃を記録し、西ヨーロッパとロシアは雪に覆われたので、数週間延期してもっとましな天候を待つのが良さそうであった。

それで、その旅をまるまる4週間繰り延べて、カレンダーによれば春の初めにあたる3月21日に変更した。それでも中央/南ドイツはなお寒く、暖房のないキャビンの乗客はクレタ島に着くまで冬のコートを脱がなかった。過去50年間で最も寒い冬に、リビエラの椰子並木は殆ど凍っていた。

従って、寒いフリードリッヒスハーフェンを深夜に出発して、夜中にフランスを縦断し、春先の最初の朝マルセイユに降り注ぐ暖かい日光を見た乗客には素晴らしい経験であった。

そこから1時間半、リビエラ海岸に沿ってサンレモに行き、低い高度でこの魅力的な美しい海岸をゆっくり楽しんだ。

そのあと南に向かって、そこから海上に出てまもなく右手にナポレオンの生まれたコルシカ島の壮大な山岳が見え、左にはその彼が偉大な経験のあと、運命のいたずらにより囚人として過ごしたエルバ島が見えた。

我々は「永遠の都」ローマに行く途中で、いにしえのオスティアの上を飛んだ。何世紀にもわたって、良くも悪くも運命にもてあそばれた街である。

中世の支配者であったバチカンの庭園に太古の遺跡を見下ろし、雨の降り出した近代的イタリアの街路や広場を上から眺めた。

そしてムッソリーニに電報で挨拶を送ることを思いついた。「栄光の昔を今に伝える永遠の都であり、近代的首都として活き活きと繁栄しているローマに上空からご挨拶申し上げます。謹んで、この素晴らしい街のさらなる発展をお祈りします。」

私はこのメッセージを通信士に手渡すとき、ちょっと意地悪く「ムッソリーニがこの街をどう思っているか知らないが」と言った。ムッソリーニの返信は「貴下の親愛なるご挨拶に感謝します。恙ない旅行になるよう祈ります。ムッソリーニ」となっていた。ムッソリーニが何を伝えようとしているのか敢えて推測しようとは思わなかった。

飛行を続けナポリ湾に入った。そこにはナポリ、ベスビアス、カプリ、ソレント、それにアマルフィが妍を競っていた。「ナポリを見てから死ね!」という。「本当に!」と思った。「だが、ツェッペリン船上から!」

暗闇が近づいた頃、イタリアの長靴のつま先に到達した。右後ろに既に暗くなったメッシナ海峡を眺めてチレニア海からイオニア海に入った。

外には何も見えず、乗客達はきれいに飾ったテーブルの「蝋燭の友情の炎」のまわりに着席していた。海亀のスープ、アスパラガス添えのハム、野菜とサラダ付きのローストビーフ、セロリのロクフォールチーズ添え、それにフリードリッヒスハーフェンで積み込んだ上等のナットケーキ、さらにワインがたっぷりあった。

この暗い海をわたる静かで安定した飛行で、この食事を楽しむことの出来る乗客は我々の提案に同意してくれると考えたかった。

次の朝、彼らは席について朝食を摂りながらクレタ島の海岸を眺めていた。

エジプトへのセンチメンタル・ジャーニー(2)

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