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陸を越え、海を越え

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Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

グラーフ・ツェッペリンの最初の飛行(6)

私は乗客に、ことの重大さを隠さずすべてを説明し、彼らは静かに落ち着いて成り行きを見守ってくれた。「最悪の場合でも駆逐艦が拾い上げてくれるが、私は被害を限定したい。補修要員はすでに大変な仕事に掛かっている。」

補修班は、幸いにも尾翼の第3帆布カバーと呼ばれる前部区画が損傷なしに残っていて、上部カバーは充分保持されていることを確認していた。最初に行わなければならないのは、昇降舵の動きを邪魔しないように、ばたついている破れを取り除くことであり、次いで残った部分を保護するための補強である。

これは易しい仕事ではなく、危険も伴うことであった。飛行船自体が前進しているので、秒速20~25mの後流のなかで作業しなければならなかったからである。速度をそれより下げることは出来なかった。雨に濡れて、その重さが通常の角度以下に押し下げられていたからである。スローダウンするや否や飛行船は沈下し、再びその高度まで持ち上げるには増速せねばならなかった。減速している間に作業できるように船速を上げたり下げたりすることは非常に嫌でやりたくないことであった。

このように我々は白波の立つ海上で、500mと1000mの間を常に高度を変えながら飛んでいたのである。しかし、何とか仕事は進んでいた。1時間半の間に緊急手当を終え、40~45ノットで尾翼に過大な力を掛けずに前進することが出来るようになった。その後、3~4時間でなんとか仕事を終えたが、驟雨が再び襲って来なかったから出来たことであった。

強い後流に吹きさらされながら、垂直尾翼のフレームによじ登り、激しく揺れる中で登ったり降りたりした志願して仕事に当たってくれた人は最高の表彰に値する。その中で主だったのは、エッケナー、ラドヴィック、ザムトの各操舵手と、いつもフレーム骨格をリスのように登ってガス嚢をチェックしているガス嚢主任のクノールであった。私の息子がこの志願者のなかにいたことを親として誇りに思うことを認めなければならない。

天候は確実に回復しつつあり、そのなかを減速状態で飛行していたが、アメリカ海軍省に要請していた援助はもはや不要になったという2度目の電報を送るように指示した。しかし、完全に緊張から解放されたわけではなかった。入電してくる天気予報は、北大西洋上に勢力の強い別の低気圧の存在を知らせていたからである。この南よりのコースは、何と次から次へと驟雨前線が来るのだろう。

もし、飛行船が損傷していたらどうしよう?大洋を跨ぐ民間航空の有用性を実証するために用意された、新「旅客用飛行船」による最初の飛行に、その海洋でこんなに意地悪な秋の気まぐれな空模様に遭うのだろう?

たとえ私が乗客に平静を装ったとしても見抜かれるに違いない。その夜と翌日の殆どの時間、比較的順調に進んだ。しかしながら夕刻、バーミューダ・グループと呼ばれる気団に遭った。強い西風で、一見また天候悪変のように思われた。

前方に相当大きな擾乱が見えた。間違いなく強い驟雨をもたらすに違いない。どうしよう?迂回してフロリダに南下しようか?どうするか決めかねていた。おそらく10~12時間の回り道になるに違いない。ツェッペリンに相当な消費を強いることになるだろう。それとも、損傷した飛行船で驟雨前線に突っ込むべきだろうか?

当直士官を呼んで、尾翼のカバーが驟雨のなかで激しいピッチングに耐えるかどうかについて意見を聞いた。彼は懐疑的であった。そのとき私の下した決断は、全航程のなかで最も困難で重大であった。驟雨の中を行くことにしたのである。

真夜中にはその中心にいた。飛行船は激しく上下した。嫌な雹混じりの大雨がガタガタとキャビンの壁や窓に吹き付けた。しかし尾翼カバーは有難いことに無事であった。あとで、日の出に小さな破れを見つけただけでカバーは持ちこたえていた。

猛烈な闘いはおよそ1時間で終わり、その後は風も弱まり、秒速12~15m程度になった。驟雨域の気温は23℃から8℃に下がっていた。気象学上のデータの意味がわかる人には、対照的な異なった気団がぶつかり混じり合って異常に激しい乱気流が起こることがお判りと思う。

遂にとうとう来たのである。そこからハッテラス岬までの航海日誌には「静かな海、楽しい航行」と書かれていた。

10月15日午前10時ころ、チェサピーク湾口の海岸線を通過し、同湾を横切ってワシントンに向かった。

グラーフ・ツェッペリンの最初の飛行(7)

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