LZ127Profile

陸を越え、海を越え

LZ127PC009

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

グラーフ・ツェッペリンの最初の飛行(1)

新造時にいつも実施するエンジン評価のための36時間連続飛行で、大都市を巡航することになった。このエンジン耐久試験は1928年9月18日に実施されることになった。

その日の午前8時に離陸して、ボーデン湖を短時間周回したあと、針路をニュルンベルクに向けた。そこからライプツィッヒ、ドレスデンを通ってベルリンに行きそこからハンブルクを経て北海に出て、そこで夜間巡航を行うことにした。

その後デュッセルドルフ、ケルン、フランクフルトをまわって帰港する予定であった。航路は予め知らせてあったので、当然それぞれの街では興奮し期待して待っていた。しかし、そうはならなかった。

我々がまだ、ウルムとニュルンベルクのあいだにいるとき、飛行船上で受けた天候状況は、雨を伴った低い雲がライプツィッヒとベルリンの上空に広がっていると報じ、その地域では地上から飛行船を見ることが出来なくなった。それで予定を変更した。西に向かい、フランクフルト、マインツを経てライン川まで行き、そこからライン渓谷を北海まで下ることにした。沢山 人の集まっているところでは、凱旋行進のようであった。

進むにつれて興奮はさらに激しくなった。我々の到来が予め知らされていたからである。ケルンとデュッセルドルフでは数千人の人々がラインに架かる橋の上から手旗で歓迎してくれた。ちょうど、1908年に「LZ4」がエヒターディンゲンの事故で失われて、ツェッペリン義捐金がもたらされたときと同じような状況であった。そう、ツェッペリンに対する熱狂が再現したのである。それは明らかに以前のときより強烈であった。

夕暮れ近くにオランダ国境に近づいた。そこで、オランダのフックと呼ばれているフリジア諸島を越えて北海に出て、そこで巡航しながら夜明けを待ち、そこから翌日ブレーメンに向かうことに決めた。私は政府の代表や記者達のいる乗船客に、針路をナイメヘンからアムステルダムを通過して北海に出て、英国海岸のハリッジに向かうと告げた。

事実、私自身このルートは初めてであった。天候がとてもどんよりしていたので、自船位置を確認するために、非常に強い光のフリシンゲン燈台を見つけようとフリシンゲンに針路を設定していた。そこからハリッジに向けて航路を海図上に描き込んだ。

翌日訪れたハンブルク、キール、ベルリンその他の大都市では、歓迎と熱狂は前日と同じように盛大であった。人々はツェッペリン飛行船の再来を見、それに最新技術の成果を感じ、ドイツ人が平和と国際和解を喜ぶように、素晴らしい業績を期待した。

10月10日、「グラーフ・ツェッペリン」がアメリカへの飛行に備えていたとき、人々の期待と緊張は計り知れないものがあった。

この飛行船は、この大きな試験飛行に備えて詳細に点検・整備されており、100時間分の燃料が搭載され、20人の乗客・記者達が乗船していた。誇張ではなく、画期的な意義ある実証飛行に飛び立つ準備が整った。この飛行船は乗客を乗せて、速く安全に大西洋を飛び越えて、近代的な旅行らしく快適で楽しい旅に出発するのである。

そのときまで、ほかの形式の航空機では決して果たせない憧れの夢であり、我々は間もなくそれを実現することを信じていた。この渡洋飛行が出来ると確信しており、さらに将来、強化・改良されて、心情的にも国際的にも「ZRⅢ」のときのように成功することを望んでいたのである。私は、途中で命にかかわる危機に遭うとは夢にも思わず、飛行船の運命にかかわる心配を抱えながら数時間を過ごすと思っていた。

私の心配は既に前日、天気図を見ながら出発の検討をするときに始まっていた。天候は考えられる最悪の状態であった。大西洋を横断するにあたって、厳しい課題は風力9、10の西からの暴風であった。多くの汽船の遭難が報じられ、大型定期客船がニューヨークに24時間遅れて入港していた。

汽船の航路をたどる飛行は、この環境条件ではまったく愚かな選択であり、計画している飛行高度で時速70~90キロの風に向かって進むと、航程の半分にも満たないアゾレス諸島まででも60時間以上必要となる。飛行コースをジブラルタル湾、マデイラ、バーミューダと遠く南に迂回することを考えたが、およそ6千浬におよぶ、この異常に長いルートは気に入らなかった。

エアラインの速度は最も重要なメリットである。誰がこれほど長いルートで速度を云々するであろうか?

グラーフ・ツェッペリンの最初の飛行(2)

陸を越え、海を越えのはじめに戻る

トップページに戻る