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第5章 建造主任 ルートヴッヒ・デューア博士

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5 Chefkonstrukteur Dr.-Ing. Ludwig Dürr

その1


ツェッペエリン伯爵の日記には、1916年2月6日付けで、ルートヴッヒ・デューアに対する挨拶の草稿がある。以下に示すのは、その中からの引用である。

・・・たぐい稀な、そしてだからこそ感謝に値することです。

それ以前には唯一、ほとんど模倣するに値しないものしかない時代に、そしてまた、あらゆる模倣者の反対があったにもかかわらず立派な飛行船が建造されていた時代に、たぐい稀で複雑で芸術的で巨大な建造物である50隻目の飛行船を建造されたことは、比類ないことであり、だからこそ感謝に値することです。

課題のために注がれたあなたの計り知れない努力に私は心から感謝します。その課題を解決してくれる人材として、私はあなたを選びました。というのは、私はあなたの中に特性を見出し、それが課題の解決のために並外れた貢献をすると感じたからです。

あなたの卓越した知識と能力、そして独自の考案によって、素人である私が考え出したアイデアは初めて生命が吹き込まれました。デューアという名前は、ツェッペリン飛行船製造と永遠に結ばれることでしょう。

ルートヴッヒ・デューアは1878年6月4日にシュトットガルトで、葡萄園経営者夫婦の8人の子供のうちの3番目に生まれた。

高等小学校(現在のシュトットガルト市立実業中学)に通い、そこから3年間 機械工の修業をし、それと同時にシュトットガルト王立建築学校(現在のエスリンゲン工業専門大学)付属の高等機械製造学校に進学した。

アーレンにある鉄道監査部の技術部で中間実習を行ったあと、1898年にヴィルヘルムスハーフェン海軍第2工廠で1年間の志願実習を終えた。

1899年1月15日、ツェッペリン伯爵はシュトットガルトの飛行船運航会社の建造事務所に彼を招いた。そこでデューアはLZ1の建造と、ツェッペリン建造の基本概念を知った。

1899年に機械製造学校の最終学期を修了し、卒業試験を終えた。

それから彼はフリードリッヒスハーフェンに移転した事務所に、再びツェッペリンを訪ねた。そこで彼はLZ1の飛翔と、1900年11月15日の会社の解散をも体験した。

伯爵と、その飛行船の概念に忠誠を守り抜いた唯一の同僚として(時には給料や傷害保険なしで)、デューアは殆ど手助けもなく、LZ1の解体と水上格納庫の、より頑丈な格納庫への改造をやり遂げた。

LZ2の建造開始(1904年)まで、デューアは湖畔のマンツェルに建てられた原始的極まる仮小屋の生活環境で、その後作られたすべてのツェッペリン飛行船と、さらには飛行機その他の軽量構造物の基礎となった軽量構造の原案を起案した。

アルミニューム断面の強度試験と合金実験を行い、小さな軽金属鋳物で結合された座屈・曲げ強度を有する三角構造桁を完成させた。

さらに外被生地の延びと破断強度を調査し、ガス嚢素材の気密性を測定し、プロペラ効率の実験を行い、風洞を設置した(1909年には、それより大きい、非常に有名な風洞が作られた)。

このマンツェル時代に、控えめな若い技師に指導力が培われた。この指導力が、後にツェッペリン工場に発生したあらゆる課題に卓越した力を発揮することになった。

1913年7月8日に、ツェッペリン伯爵はルートヴィヒ・デューアを、1909年から新しいフリードリッヒスハーフェンの敷地に作られたツェッペリン飛行船製造の技術部長に任命した。

デューアの業績を示すには、次の2つのキーワードで充分であろう。

デュラルミンの改良およびその施工要領の採用と、第一次世界大戦であらゆるドイツの航空機エンジン形式(さらには、しばしば乗務員にも)において高度な有用性が証明された低圧室の建設である。

1906年から1909年のあいだの(LZ3、LZ4およびLZ5による)飛行で大衆は熱狂し、その後の飛行船事業の指標となる経験を積むことになるのであるが、その殆どの飛行でデューアは昇降舵とガス通気筒を担当した。37時間連続飛行中の1909年5月31日に彼は休みなくその任務に就いていた。疲労は極限に達し、飛行船はゲッピンゲンで梨の木に衝突した。

1919年からの危機の時期、工場は存続をかけた苦闘に見舞われ、他のアルミニューム製品に切り替えなければならなかった時、デューアはタンク、ロープウェイ・キャビン、それに特に軽金属自動車部品の考案で傑出した設計者としての手腕を発揮した。彼は自立型軽構造車体を考案したが、これは残念ながら当時実現しなかった(1935年に、これに類似した製品が作られている)。

1925年7月19日にデューアはライダ・ベックと結婚した。結婚によって2人と娘と2人の息子が生まれた。

大型飛行船「LZ126」、「LZ127」、「LZ129」および「LZ130」の建造によりデューアの名声は技術の世界で頂点に達した。

6つの大学や高等技術専門学校が彼に名誉教授の称号を与え、2つの都市が名誉市民に、皇帝ヴルテンブルク王、連邦大統領ホイス、そのほか多くの省庁が彼に勲章と記念牌を授け、多くの団体が彼を名誉会員に任命した(VDIも含め)。

だが、思い違いをしてはならない。デューアは、世間的には常に名の知れた飛行船指令の影に隠れてしまっていたのである。

第二次世界大戦中、飛行船の建造が終わっても、1945年に連合軍により会社が解散されるまで、デューアは会社の技術役員の席に留まった。

デューアは、自分自身に高い課題を課した。彼は多くを達成し、その課題に対して効率よく業績を挙げたのである。

彼はフリードリッヒスハーフェンで最初のオートバイ乗りであっただけでなく、天分に恵まれた気球乗りでもあった。彼は庭や果物作りだけでなく、近くのアルプスで夏にはロッククライミングに挑み、冬には高山スキーの先駆けを試みた。

彼はドイツ・アルプス山岳協会のフリードリッヒスハーフェン支部の共同設立者になり、その名を知られた壮大な山岳道フェーヴァル山塊会の執事にもなっている。

ルートヴィヒ・デューアは高齢になるまで、いつも住まいと工場のあいだの道を自転車で通った。有名な同郷人のその慎ましい姿は、フリードリッヒスハーフェンの人々の記憶に留まった。彼は1955年の大晦日の晩78歳で亡くなった。

飛行船長ハンス・フォン・シラーは、デューアについて次のように述べている。

「偉大な業績を残しておりながら、物腰はシュヴァーベン人によく見られるように丁寧で、強い意志を持ちながら絶えず礼儀正しく、先見の明を持ち、誰にでも親切であった。」

ツェッペリンコンツェルンの支配人、アルフレッド・コルスマンは次のように述懐している。

「私は、飛行船製造者の専門領域の開発を数人のメンバーに分散させようとしていたが、デューアはリーダーを務める多くの技術者がそうであったように、自分の領域を他の人に委ねようとはしなかった。デューアを見ていると、私が若い頃に村の通りを練り歩き、様々な楽器を同時に演奏していた1人の男を思い起こす。」

ハンス・フォン・シラーはこうも言っている。

「デューアは、真に有能な技術者であるだけでなく、常に多くの現実的課題に対処しており、大きな良心と精緻な感情移入能力を持ち、絶えずその仕事を確実にこなす人であった。彼は多くを語らず、出しゃばらず、生まれつき控えめな性格であった。ただ、彼の専門分野で発言するとき、論述は傑出し、明晰で、誰が聞いても理解できた。」

この明晰さと判りやすさはルートヴィヒ・デューアの著作にも顕れている。

それをこの後に複写で再版掲載する。

その2

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