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第4章 フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵

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4 Ferdinand Graf von Zeppelin

その2


その後、改造と修理を終えて1900年10月17日(80分)と、10月21日(23分)に2度の飛行を試み、確かに飛行船が操縦可能なことを実証したが、特にダイムラーエンジンの性能と信頼性があまりに乏しいことが明らかとなり、軍の要求を満たすことは出来なかった。

会社の資金は底をつき、新たにガスを充填するための経費を賄うことさえ出来なくなった。会社は解散され、LZ1は解体された。

ツェッペリン伯爵はVDIに新たな委員会を招集し飛行の成果を評価するよう要請した。委員会やそのメンバーの意見表明と、伯爵の熱のこもった答弁は翌年まで続いた。

委員会は1902年3月9日に最終的な結論を表明した。その中で伯爵の努力には感嘆したものの、その飛行船の性能評価と将来の展望に関しては認定しなかった。

こうして、VDIの支援が打ち切られたために、伯爵は次の飛行船の構想を起案していた唯1人の職員であるルードヴィヒ・デューアとともに、建造資金を探して死にものぐるいの努力をした。

1903年10月3日からの週に、飛行船運航支援を懇願する大々的な緊急通知が出されたが、結果は僅か1万5千マルクで、ドイツの資産家に対して6000通の寄付依頼状により総額8千マルクが集まったが、それは同時に、多くの嘲弄と侮辱をもたらすことにもなった。

それにも関わらず、1905年4月に2隻目の飛行船の建造を開始できたのは、国王ならびにプロシアが富くじを許可してくれたおかげで総額175000マルクを獲得することが出来たことと、ベルクおよびダイムラーの資金援助、それにルードヴィヒ・デューアが信頼してくれたことによるものであった。

1905年11月30日、後にLZ2と呼ばれる新しい飛行船の最初の実験は失敗に終わった。

最初で最後の飛行となった1906年1月17日に、その飛行船は良好な操縦性を発揮し時速40kmの速度を達成したが、横軸方向に非常に不安定であることを実証した。

舵の故障とエンジンの不調が原因で、飛行船の航行を止めることが出来ないまま、LZ2はアルゴイまで漂流してしまった。そこで、初めてツェッペリン飛行船を地表に着陸させようと試みられた。うまく行った。

その後、飛行船は雷雨の中、不適切に非常に強く固縛されたために損傷し、そのため解体されてしまった。

この失敗に伯爵は最初、完全に失望してしまった。それにもかかわらず、その後再び飛行船は建造された。そのシステムに欠陥がないことを、伯爵は自らと他の人々に確信させたのである。

富くじによって財源を確保することが出来た。

1906年5月26日に、カール・ベルクが亡くなった。彼の娘婿のアルフレート・コルスマンはリューデンシャイデの会社に勤めていたが、ツェッペリン伯爵への協力を始め、経験豊かな経営者として助言を行った。

1906年10月9日と10日に、新しいLZ3が2度の飛行に大成功をおさめて注目された。伯爵にとってゆっくりと道が開け、情勢が有利に展開しはじめた。

エッケナー博士はツェッペリンの事業に納得し、よき広報担当になった。

ドレスデンの高等技術専門学校は伯爵に名誉博士号の称号を授与し、ドイツ政府は50万マルクを投じて新しい大型水上格納庫、帝国格納庫を提供し、1907年9月に完成した。

LZ3は、1907年9月24日から10月13日までに、8時間連続飛行を含む8回の飛行を成功させた。

1907年10月26日にベルリンでは、4隻目の飛行船を完成させるために直ちに40万マルクを伯爵に進呈することと、24時間飛行が実証された際には2隻の飛行船を215万マルクで買い付けること(そのうち50万マルクは伯爵個人の仕事と出費に対する補償)が決定された。

1908年6月29日に、ツェッペリン伯爵はドレスデンで開催されたVDI総会で -いまや熱狂的に迎えられた- その有名になった飛行船の建造に関する講演を行っている。

彼はVDIの最高の表彰、グラスホフ記念メダルを授与された。7月8日、70歳の誕生日に、その祝典とあわせて表彰が行われた。

1908年6月1日に、スイスへの12時間飛行の業績を達成し、新しく建造されたLZ4の性能を発揮して大きな反響を引き起こした。この時の飛行と、8月4日にツェッペリン伯爵によって行われた24時間飛行については後述する。

それはエヒターディンゲンのおける大惨事で終わった。LZ4の喪失に心を打たれ、国民的英雄ツェッペリン伯爵に熱狂した個人、会社、組合などから短期間に625万マルクの義捐金が寄せられた。いわゆるエヒターディンゲンの奇跡が起きたのである。

おまけに帝国はLZ3と、建造されることになっているLZ5を引き取ったのである。

VDIも異例のことを行った。すなわち、それは国民義捐金への5万マルクの拠出である。このほか、VDI第一委員会のメンバーであった C.バッハは、VDIの評価が高まるように次のことを行った。彼は1908年9月26日の論説の中で、90年代後半にVDIが果たした役割について述べたのである。1901年の第2委員会については全く何も話題にしなかった。

その3

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